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回復の途中
自分は傷つきやすい人間だと最近になってようやく認めることにした。
かつて仕事でかなり加害性の強い男性と接した時、心に受けたダメージをうまく回復できず一定期間メンタル不調に陥ったことがある。
気持ちが収まらず、(もしも細部までリアルに想像して本気で念じれば生霊を飛ばすことができるのではないか、その生霊に復讐を代行させられないか)と思ったりもした。そこには流血が伴わなければ気が済まなかった。そんなことを至って真面目に考えていたから、相当に追い詰められていたのだと思う。
できなかった反論、解消されない疑問、受け取りたい共感など、頭の中ではたくさんの言葉にならない言葉が絡まり合っていた。それらは形が定まっていないため、大きく膨れたり醜く溶けたりしながら脳内を占め、睡眠をも妨げた。
自分でも不思議なほど尾を引いたので、普段は買わない高い肉を買い、焼肉でもして気持ちを切り替えようとした。帰宅した夫が「奮発してどうしたの」と訊いたので、いっそ明るくプンスカ調で話そうと試みたら思った以上に辛く、号泣してしまった。
泣いたからといってデトックスになったかというとそうではなく、翌日はふたたび生霊飛ばしに余念がなかったが、ふと自分がいつの間にか「悔しい」という感情を自覚していることに気がついた。夫に一連の出来事と号泣の理由を吐露したことで気持ちが言語化され、自分はまず悔しかったのだと遅ればせながら知ったのである。
言葉か。足りないのは。
「悔しさ」をヒントに、思いついたキーワードで検索をかけて気になったさまざまな文章に目を通した。そうして、自分の内面を見つめ言葉にすることを後押ししてくれるような本に出会った。
なかでも当時、助けられたのが『夜を乗り越える』(又吉直樹著)だ。この本からは、読書を通してたくさんの言葉や考え方を獲得することで自分自身の状態や感情を言語化できるようになるのだと教えられた。
また、これは都合のいい汲み取りかもしれないが、自分が納得できないことは忘れようと押し込めるのではなく、きちんと根に持ち、しかるべきところで言葉に変換してもいいんだと言われたような気がした。
いつか自分もあの理不尽な出来事について書けばいいんだ。
そう思った瞬間、一気に毒が抜けた。負のエネルギーを肯定することで、これまでの気持ちにいったん区切りをつけられたのである。
そこからは自然と心のケアに関する本やコンテンツに手が伸び、メンタル不調は日常的に起こりうるものであることを学んだ。
さらに感情に対する解像度も高まった。例えば「怒り」という感情の奥には「不安」や「悲しさ」「寂しさ」といった、もっと根源的な感情が隠れているらしい。
以前までは「悲しい」「寂しい」を口に出すのは恥ずかしいことだと思っていたが、これらは元素のような感情であって人間にとって一番の基本なのだと理解してからは、恥ずかしがるどころかむしろ素直に認識した方がその感情に早くアプローチできるなと考えるようになった。
そうしてこのタイトルの冒頭に戻る。自分は思っているほど楽観的でタフな人間ではなく、些細なことで傷つく。いつも傷ついている。それを認めることにした。
他人のちょっとした一言に傷を受け、ぞんざいな態度に痛みを覚え、時には赤の他人が何かを被っている場面を見ただけでもダメージを与えられる。
あの傷がようやく治りかけてきたと思ったら、新たな生傷が増えている。治っては次の傷を受け、それを治療している間にまた攻撃が飛んでくる。
性質はなかなか変えられないから、これからもイタチごっこは続くのだろう。しかし少しだけ考え方を変えると、人生はいつも回復の途中で、傷が複数あっても常にどこかは快方に向かっているとも言える。癒えていった箇所は、以前より少しだけ厚い皮膚で覆われていく。
(2023/4/20)
今年5月21日に開催された「文学フリマ東京36」への初出店を目指してちまちまと制作したエッセイ本『使いどころなさそうでややある話』から転載。
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同書は現在、私が期間限定で運営している間借り書房 いりえ(東京都千代田区)に並べているほか、機械書房さん(東京都文京区)に置いていただいています。
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