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氣は川の流れのようなもの

氣とはなにか?

文字から読み解く

『氣』というものを語るときには、氣の思想の元祖である中国の文字から興します。

紀元前1600年前後、今から3600年ほど前の殷王朝において使われていた甲骨文字という亀の甲羅や動物の骨に刻まれた字にその源流となるものがあると考えられているそうです。

その後の金文にも、概念らしきものがあらわされていますが、直接的に『氣』に関わるとされているものは、紀元後100年頃に成立した世界最古の漢字字典「説文解字」に記されている、『氣』。

これは、雲と米の象形文字が組み合わさったもので、なんとなく炊き立ての米から立ち上る湯気を彷彿とさせます。

当時の中国では既に稲作は始まっていますから、雲のようにもわもわ~っと立ち上る水分であり養分が、身体を養う米とともに生命エネルギーとしてとらえられていたと考えられています。

古代中国での、易や風水の発展と共に、この『氣』の概念は発展洗練されていきますが、東洋医学において人体の『氣』については、紀元前180年前後の馬王堆漢墓から出土した大量の医学書の記載に詳しくあります。

その後の「黄帝内経素問」「黄帝内経霊枢」により、経絡や経穴、五臓との関係が詳述されるようになるため、現代の東洋医学系の専門学校においては、このあたりを源流として、『氣』の性質が語られます。

とくに鍼灸においては、その紀元前に語られたことが、現代の治療法としてリアルに存在するのですから、ただでさえ、目にみえないものでわかりにくいものであるのに、どこからがリアルなのか、ファンタジーなのか、怪しいのか、そうでもないのか、判別分別不能となっています。

臨床における氣

臨床の場で、患者さんにお説明を差し上げるときに、私は東洋医学における『氣』の意味の伝統的な使われ方とともに、私自身が解釈している『氣』に拠るお説明をします。

『氣』は確かに宇宙まで繋がる概念であるとともに、非常に身近な親しみ深い概念であるので、わざわざ難しく考える必要はないからです。

外国語のことはわかりませんが、日本語には『氣』という言葉をまとう用語が数限りなくあり、日常語として溶け込んでいます。

氣になる
氣がする
氣が合う
氣落ちする
氣まぐれ
氣を遣う
氣を読む
氣がいい
氣が進まない
氣が引ける
氣が向く
氣が短い
氣が急く
氣が遠くなる
氣詰まり
氣が重い

きりがないですが、反対語も含めると毎日のように氣についての感じを、人によって味わい、表現しているとも言えます。

私が『氣』という言葉を使う時、これらすべての総和としてのエネルギーのようなものとして表現します。

単純にやる氣や元氣といってもいいでしょう。

試験勉強をしていて、やる氣があるときとないときでは、進み方にも身につき方にも雲泥の差があることは、誰しも経験することでしょう。

好きなクラスメイトがいて、その彼なり彼女なりが自分に氣があるかないかもなんとなくわかるものです。

雨降りの月曜日の朝、会社に行きたくないなぁ…と思う。でも、行かなきゃ行けないなぁと思う。頭での思考で行くべきとか、行かなきゃと思っても身体は動きません。

氣が湧いてくるか、氣を振り絞るかしてなんとか自分自身のエネルギーによって体を動かすわけです。

私の院の問診票には「やる氣がでない」とか、「氣力がない」という項目がありますが、初診の段階ではかなりの確率で、皆さんチェックされます。

このへんは東洋医学が得意とするところで、「氣虚」や「氣滞」という概念があり、「補氣」の漢方薬を処方されたり、鍼によって「氣を瀉する」ことで、エネルギーを補ったり、減らしたり…ということができるということになっています。

実際私自身、漢方や鍼灸を服用することで、元気になることはしっかりと実体験しているので、そこに私自身は不思議はないのですが、これを指圧に置き換えて考えるとどうなるのでしょうか。

やる氣が出ない…とお悩みの患者さんに、私は指圧で何をしているのでしょうか?

手で触れる、手をあてる。

ひとの生命活動は、一方向にすすむものではありません。

絶えず振り子のように揺れ動き、円環運動を描きながらある方向性を目指したり、停滞して進まなくなったりすることもあります。

人体は大宇宙の中の小宇宙です。
季節が巡るように、大きな流れの中で人体の中も巡っています。

現代人の生活は、あまりに忙しく自然からかけ離れたところでの無理を強いられるものになってしまいました。

それぞれのお身体は、けなげに働き、もう無理と声を発しているのに、その声を聴きとれず、また聴こえたとしても無視して無理を続けてしまうことがあります。

指圧師は、手でその声を聴いています。
手で触れて、その魂の震えに触れています。

すべてのいのちは振動しています。
その振動に共鳴する、共振する。
そのフックとなるのが、指圧師の手掌です。

同じ東洋医学陣営といっても、指圧師は鍼、灸、生薬といった道具をもちません。徒手空拳で、患者さんと接するわけです。

からだの上に手を置き、触れることで、いのちの振動に手で耳を澄ます感じ。

言葉には表現されないような原始感覚に、患者さんと二人で耳を澄ませていると、ふっと滞っていたものが流れ出すことがあります。

例えば、慢性の肩こりを抱えている患者さんの肩甲骨の横のゴリゴリに手をあてているとき、実母の介護を明るく語っていらっしゃるうちに、早逝した兄を想い続ける母への思いやりと同時に、小さい女の子だった自分を抱きしめてもらいたかった想いが、ふと意識の上に上ってきて涙されること。

それが『瀉』になっていることがあります。

そして、そのまま仰臥位になっていただいて、腹部の施術を続けているとあんなに施術前に冷たかったおなかがほっこりと温かくなって、おへそのあたりに、手を置いているだけで「温かい~」と声をあげて笑われて、呼吸がゆっくりとおなかにまで入ってくるのを感じます。

それが『補』になっているなぁ‥と感じることがあります。

よくカウンセリングの場で、傾聴や共感ということを言われますが、指圧の場におけるそれは、もっと直接的な身体感覚としてのものとして感じます。

患者さんのおからだがゆるんでいく過程で、こころがゆらぐことはよくあります。

それは施術者である私のからだを直接振動させます。

涙が止まらなくなることもありますし、患者さんの腰を掌圧していたら、朝から痛かった自分の腰も一緒に気持ちよく治っていた…なんてこともあります。

そのいのちといのちの共振は、氣が通じ合っているからおこるもので、目にみえるもの、筋肉や神経といったものだけを意識していたのでは、起こらないことだろうと、私は思います。

もちろん、世の中にはいろんな指圧があって、私の指圧が正しいわけでは全くありませんが、私が指圧に醍醐味を感じるのは、そこだなぁと。

感染症の流行で、密な関係性を簡単に結ぶことができにくくなっているからこそ余計、指圧師はそこで活躍できるといつも思います。

氣とは何か?の答えにはなってないかもしれませんが、指圧においては『氣』が全てということが伝わるといいなぁと思いながら、また、色々な先達のお考えを援用してまた、少しづつ考察したいと思います。


最後まで読んでくださって有難うございます。読んでくださる方がいらっしゃる方がいることが大変励みになります。また時々読みに来ていただけて、なにかのお役に立てることを見つけて頂けたら、これ以上の喜びはありません。