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活字はあんまり、読書はそこそこ 本屋が大好き、本も好き

■「本好き」ではあります
 本屋に行くのが大好きです。小説・新書・雑誌・コミック・楽譜・専門書・参考書など、フロアにズラ―っと並ぶ本、本、本。目に飛び込んでくるタイトルやポップ、うっとりするような装丁、平積みされた新刊……。しかし、立ち読みはあまりしません。並んでいる本を眺めるのが好きなのです。感覚としては家電量販店や文房具店、ホームセンターに行くときのワクワクに近いかもしれません。そこに出入りする人間の興味関心や欲が、ジャンル分けされ、陳列されている空間に興奮せずにはいられないのです。
 そんな「本好き」の私ですが、読書量は決して多くありません。活字を追うのは正直苦手ですし、人生において大切なことの多くは漫画から学びました。なので、「子どもを本好きにするには」といったフレーズを見聞きするたびに、「遥志くんは本好きではあったけど、読書好きではなかったな……」と、これまでの読書遍歴を振り返ってはなんとも言えない気持ちになるのです。

■読書遍歴
 子どもの頃、寝る前に母に読み聞かせをしてもらうのが大好きでした。同じものを何度も読めとせがむので、枕元の本はずっと少ないままでしたが、特に『エルマーのぼうけん』『バムとケロ』『ぐりとぐら』のシリーズがお気に入りだったのを覚えています。
 しかし、小学校の図書館で自ら本を借りた記憶はほとんどなく、唯一思い出せるのは『さるのこしかけ』『もものかんづめ』などさくらももこ氏のエッセイくらいで、ハリーポッターや学校の怪談、動物や乗り物の図鑑には一度もハマりませんでした。ちなみに小学校時代、一番読み込んだのは『ちびまる子ちゃんの四字熟語教室』という単行本です。おかげさまで、中学受験国語の大問1ではさほど苦労せずに済みました。
 中学生になり、ようやく活字の物語と距離を縮めます。森博嗣氏の『スカイ・クロラ』シリーズをきっかけに、映像化した作品の原作を読むことにハマりました。同じ物語でも異なる表現媒体を通すと、こうも手触りが変わるのか、という不思議さに惹き込まれていったのです。
 高校で演劇に出会ってからは、その好奇心がシェイクスピアや近松門左衛門といった古典作品の上演と戯曲の比較に移っていきます。劇場で観たとんでもなく面白い『ハムレット』が戯曲で読むとまあ退屈で、あの面白さの正体は何だったのか知りたくて、大学では劇団を旗揚げし、自分でも上演してみました。

■「本」は手段か目的か、はたまた娯楽か道楽か
 幼児期の本との付き合い方について、毎年相談を受けます。一番多いのは「いつまで読み聞かせでよいか」。結論から言えば、「子どもが求めなくなるまではいつまででもOK」です。読み聞かせを「大人が読んであげる」という読書における補助輪のようなものだと考えると、いつかは卒業しなきゃと思うかもしれませんが、音読や黙読、立ち読みや斜め読みのような読書スタイルの一つと捉えれば、読み聞かせはまったく幼稚なものではありません。「オーディオブック」も、言ってしまえば読み聞かせです。
 相談として次に多いのは「物語を読まない」ということ。これも似たようなことで、どこかで「活字の物語は上等で、乗り物の本や漫画は幼稚」という先入観があるだけで、読みたいものを読みたいだけ読んでいるならば、それ以上を求めるのは野暮です。本に貴賎なし。もちろん、「ベストセラーよりもロングセラーの本を身の回りに置く」といったきっかけづくりや環境づくりをする上で、選書をすることは大いにアリです。ですが、それはあくまでも親目線。子どもにその価値観を押し付けて本を面倒くさがられては元も子もありません。
 そして、そもそも論として「本を読まない」という相談も多数。これはまず目的を見つめなおしましょう。物語に触れて感性を豊かにしたいのか、本・活字・長文という社会を生きる上で避けては通れないものに親しみを持ってほしいのか、共通の趣味を持ちたいのか。「本を読むこと」自体が目的になると、強制されるだけの味気ない勉強と同じで、苦手意識へ一直線です。その目的がもし代替可能なものなら、本じゃない別の入り口からいずれ本にも辿り着くかもしれません。
 1冊も読破できないかもしれませんが、読書の秋を満喫してやる気満々です。

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