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何か書きたくなったから、書き始めた文章


久しくnoteに文章を書いていなかった。前回の投稿記事の日付は10ヶ月ほど前だ。書くことで得ていたのは満足感や期待感、不満、諦めない意志の再確認だった。


この文章は確実に、誰かに向けたものではなく、自分が自分のために書きたくて書く文章だ。誰かが読んでためになるものではなく、気分が晴れるものでもないだろう。誰かが読むためではなく、書くこと自体の意味を表す(表現ではない)ような、そんな文章になるだろうという予想をしている。


食べること自体に癒されるし、お風呂に浸かる事にも癒される。木を削っても癒される。同じように書くことによって癒されようとしているところだ。何かをすることには癒される効果がある。何かをする事で意識を不快な連想から遠ざけることができる。


癒しを常に必要とする状態では、いろんなことが制限される。エネルギーや時間のほとんどを癒すことに費やさざるを得ない。台風の目のような確実にあるがなかなかお目にかからない幸運な瞬間にのみ、創造的な活動ができる。


癒しを常に必要としながら、良質な癒し体験は稀有である。感性を心地よく刺激する体験や、自分の能力の限界に挑戦するような刺激、心からリラックスできる時間は頻繁には体験できない。


それならば、良質な癒しが得られない時間をどうやって過ごせば良いのか。一つは娯楽を消費すること。もう一つは眠ることだ。これらはとっても無駄ではあるが、抜け出せない海の底にずらりとならぶ酸素ボンベのように、私の命を救ってきた。



ここまで書いみて、「やはり」「またか」と感じることがある。これまで投稿した記事のほとんどがそうだ。自分を理解するために、またその軌跡を知ってもらいたいという気持ちで書かれている。


もう、関心ごとのほとんどがそうなのだろう。ただ息苦しさをなくすために生きているようなものだ。


ほら、誰かが読む文章じゃないや。


でも、今回はその中でもいい文章が書けたと思う。
大分客観的に書けた。気負いがない。何も求めていない。
ただ、私の自然が書かせた。そんな感じの文章だ。


締めの文章はいつも苦手だった。今までは自分のために、誰かに言いたいことばかりで締めていた。今回も少しまごついている。

なぜ締めが苦手なんだろう。文章を終わらせるとはどう言う意味を持つのだろう。ふと思い浮かんだのは、「語尾に思いの全てが宿る」という聞くワークショップでの教えだ。どんなことを口にしても、語尾にこもる思いによって意味が大きく変わってくるのだ。


私の文章は「伝えたいこと」があって書いたものではなかった。私が「癒されたくて書く」というのが本質であった。「伝えたい」より「癒されたい」の方が強かった。だから、締めが自然に出なかったのではないか。だから、締めの部分が投げやりになってしまっていたのではないか。



やはり今日は文章が書きやすい。自分の理解が体験レベルで完了しつつある実感がある。自分の体験と世界の現象をつなげる視野と意識を持てるようになってきたように感じる。



「人はより良くせずにはいられない」



そんな意味のことを誰かが言っていた。

何もしなかった一日の終わりに、罪悪感を感じるのはこの本能からなのか。



でも、癒されたい気持ちを癒し続けることも悪くない。
できないことを、できなければいけないと思うのはよく考えればおかしいことだ
逆に、自信満々で自分を癒すべきだ。



何かを始めるのは、それからでいい。

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