見出し画像

「◯◯のせい」と「自責・他責」を考え直す


「あいつのせい」「家庭環境のせい」「コロナのせい」

そんなふうに「せい(所為)」という言葉は使われる。

辞書には『上の言葉を受け、それが原因・理由であることを表す』とあり、「ああ、そのように使われているな」と納得できる。


しかし私はこの言葉を使うこと、使われることに大きな違和感や不信感を感じている。
なぜならこの言葉を使うことには害が多いからだ。

そんな「せい」という言葉の下に埋まっているものを掘り起こしてみる。


「〇〇のせい」という言葉の害


「せい」という言葉はとても便利だ。気軽に簡単に原因を指摘できる。慎重に要因を精査しなくてもいいからだ。
この言葉を(思考の中だけでも)使う癖があると、因果関係の把握は直感的になるだろう。
他人が使うこの言葉を信じて誘導されることもある。


この言葉は使った瞬間に認識を間違える。そして思考停止し、改善や発展、解明する可能性を自動的に捨てる。そこには「もうそのことは考えたくない」という後ろ向きな気持ちを帯びている。


使った時点で自分の因果関係の判断能力に不備があることを露呈してしまう。そして起こった出来事に対して自分は対処しないという宣言でもある。



主体的な行動は存在するのか


人は主体性というものを持つことができない。

人は生まれてから自分一人だけで自分を育てられない。社会や環境の影響を受ける。また自分の能力を選べない。誰かの迷惑をかけるような行為をしたからといってそれは自分で選んだ行為じゃない。
外部からの影響を、与えられた能力で咀嚼してできたのが"自分"だ。
そんな状態の個人が「〇〇したい」とか「□□だ」とか言っても、その根元は自分に由来しない。それのどこに主体性があるのだろう。


その行為が故意であろうと凶悪であろうと、その原因には過去から現在すべての人間の活動や自然現象が関わっている。バタフライエフェクトのように、関係がないような一粒のファクタを集めて山にまで積み重なったものが一つの事象として現れる。


では、人はどのように責任を負えばいいのだろう。



他責も自責もない


ある結果を引き起こした事実とその報いは起こした者が負うしかない。しかしその責任は過去から現在まで、全ての人間がうっすらとでも負う意識があるべきだ。皆が100%無関係ではないのだから。
つまり、さまざまな出来事の責任を他人になすりつけているのは、何もしていない”私たち"なのだ。

ただの自責もただの他責もない。

あるのは「主体的ではない事象の実行者の自責」と「事象を間接的に導いた者たちの自責(客観的には他責)」だ。


健全な他責とは薄く広い自責だ




このツイートでは「自分の失敗は自分だけの責任ではない(自分を無罪にしてしまうこともできる)」と開き直ってしまうことが問題だとしている。

まさに「バランス」の問題で、自責をゼロにするほどの他責は有害だ。


行為者が「他責」という言葉を使うことが間違いなのだ。一方的に他人に責任を投げても何も動かない。他人が責任を感じるかどうかは自発的であるべきだ。

全ての人が自責の意思を持った結果生まれる、自発的な他責こそが健全な他責だ。

それは「全てのことに自分が責任がある」というよりは、「自分にとって無関係なものはない」という態度でいい。

他人が皆、無責任や無関係を装っていないから素直に自分の責任を負えるのだ。




確かに大変そうで理想論にも見えるが、目指す価値は大いにあるだろう。


今すぐできることが一つある。


「人のせいにするな」とか「自分のせいじゃない」などと考えないことだ。


私はこの言葉が使われなくなる日を願っている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?