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138.(82/365) 一区切り。

今日で子どもたちとの一年が終わる。
道中は長いなあと思いながら進んでいることもあったけど、今年も振り返ってみるとあっという間に過ぎていったように思う。
時間は伸び縮みするってことを感覚的に思い知る。
今、最後の学級通信を書き終えて、このnoteを書いている。
振り返ると、今年は、実感としてうまくいったことよりもうまくいかなかったことの方が多かったなと思う。
統合初年度という例年にはない忙しさやわからなさ、みんながその中で手探りで仕事をし、それは組織の雰囲気を作っていった。
1学期が終わる頃には、学校全体が殺伐として、このままでは1年走りきれないのではないかという不安が組織の中に渦巻いていたように思う。
夏休み前に有志でだったが、集まって現状や一人一人の考え、感情をシェアした。
少し認識が共有できたことで、それぞれに「自分にできることは何か?」という意識が芽生え始めたのはこの頃だったように思う。
特に、働き方改革の文脈で、会議のあり方や情報共有の仕方など、担当としても色々と提案して、少しは良くなったかなと思うところもある。
けれど、多忙の濁流は勢いを止めるどころか、さらに勢いを増すように感じた。
みんなその中で、流されてしまわないように必死に「今」にしがみついていた。
その「今」は、その人にとっての「今」であり、他者の「今」とは、必ずしもぴったり重なるわけではない。
自分の「今」にしがみつくことが、他者の「今」を苦しくすることにつながることもあったと思う。
そのことが、組織内での分断を生むこともあった。
そんな多忙さの中で、ぼく自身も、「誰のために?」「何のために?」、いや、そもそも目的的思考が強すぎてしんどくなっているのではないか。
などなど、さまざまなことを両手に抱えながら、解決策も見出せないまま進んできた感覚がある。
いや、正確には、見出せている解決策もあった。
でも、それは、対症療法であることが明白な方法だった。
対症療法とわかっていてもそれをするしかない、そんなことも多々あった。
自分の中の理想と現実が闘うことが何度もあった。
でも、そんな中でも今日の日を迎えられたのは、子どもたちのおかげだ。
同僚のおかげだ。
家族の支えのおかげだ。
ネガティブ・ケイパビリティを発揮できたのは、周りの人たちのおかげだ。
今日という日を、この一年を、「点」として捉えると、そのうまくいかなさに打ちひしがれそうになる。
でも、今日もこの一年も「点」じゃない。
長く続く人生という生成し続ける「線」のある一点でしかない。
だから、完成も終わりもない。
ただ、明日からも日々は続く。
ぼくはぼくの人生を生成し続ける。
それしかない。
それしかないことは、絶望じゃなくて、希望だ。
ぼくの「線」がどこに向かうかはぼくにもわからない。
それでいいし、それがいい。
明日は来るし、春は巡る。
理想から程遠い現実にうなだれるのではなく、生成し続けるプロセスの中の「今」を肯定的に受け止めること。
くるりの「真夏日」を聴きながら、そんなことを思っている。

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