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優しさは有限

『頼られるのは好きだが、あてにされるのは嫌い』という言葉があります。どこかで耳にした言葉なのですが、調べてみるとアニメのキャラクターの一言が検索で引っ掛かりました。おそらく似たような言葉は各処にあります。

 私はその言葉が『優しさの真理』を突いているようで、いつからか意識するようになりました。今回はそんな優しさについて少し語らせてください。

全ての他人に優しいは理想だけれど

 幼い頃から学校や家庭で「他人には優しくしなさい」と教えられてきた経験を誰もが多かれ少なかれ持っているかと思います。この思想は今でも理想だと思いますが、大人になってからは非常に難しい現実を痛感しています。

 大人って難しい。これは大学生あたりから感じるようになったでしょうか。世代が異なれば、常識も異なる。常識が異なれば、価値観も異なる。価値観が異なれば、思考と行動も異なる。異なる世代とのコミュニケーションは同世代に比べて摩擦が大きくなりやすい。

 さらに大人ならではの結婚や子育て、お金、人間関係の悩み、はたまた病気や離婚、事故などの精神的負荷の大きい出来事によって、学生時代とは比にならない人格的な変容を遂げることもあります。学生時代は素直で優しい子だったのに、大人になってから偏屈で他責ばかりなんてことがあるわけです

 学生時代は身体的にも精神的にも体力が有り余っていたためか、全ての他人に優しくを地で行くだけの力がありましたが、大人になってから明らかに目減りしたそれらをもとに、加えてそんな大人の事情を内包する関係の中では、優しさを振り絞らなければならない場面を自覚するようになります。

優しさは酸素のようなものだった

 人間関係における優しさを考えてみます。例えば、友人に愚痴を聴いてもらえると気持ちが楽になりますが、このとき、友人の気持ちはどのように変化しているでしょうか。

 一度や二度の愚痴なら「任せて!」と快く引き受けてくれるでしょう。ところが、会うたびに愚痴ばかりとなれば、段々と話は変わります。友人が真面目に向き合うほど、愚痴というストレスの欠片に苛まれて自然と距離が開いていくでしょう。楽しくない関係に人間は正直です。

 そして愚かなことに、話を聴いてくれなくなった友人の愚痴を別の人間にこぼすようになるかもしれませんし、話を聴かなくなった友人は別の人間に愚痴をこぼすかもしれません。

 何が言いたいのかというと、(愚痴を吐くような)ストレスに苛まれている状態というのは溺れているようなもので、他人からの優しさは一時的な酸素のようなものなのです。溺れているわけですから夢中で酸素を欲しますが、夢中であるがゆえに他人の酸素を奪っている事実に気づきにくい状態にあります。

 他人から分け与えられた酸素をもとに海面に顔を出す努力、すなわち精神的な自立を試みなければ共倒れになる可能性まであります。冒頭で述べた『頼られるのは好きだが、あてにされるのは嫌い』の意図はここにあります。頼られるならあなたの一助になれますが、あてにされるでは私が引っ張り上げなければならないのです。

優しさは有限

 自分の優しさに気づいていない。他人からの優しさに気づけていない。同じ行動をとっても感謝されることもあれば、さらなる優しさを要求される場面もあります。

 決してこれは恩を返せと言っているわけでも、恩を与えていると言っているわけでもありません。優しさとは無償の奉仕。個人の余裕から絞り出された愛のようなもの。無自覚な個人によって搾取され続ければ、全体の総量が減ってしまうのです。これは愛のない窮屈な社会に繋がることを意味しています。

 最近では、接客業を中心に“感情労働”なる言葉も耳にするようになりました。他人の感情に付き合うにも精神的なコストがかかり、肉体と頭脳に次ぐ第三の労働として認識されつつあります。

 店員だから、家族だから、友人だから、恋人だからという論理で優しさが無限に供給され続けるなんてことはなく、どんな人間関係においても優しさには限界があると私は感じています。そう思っておく方が建設的な関係を築けるが正確かもしれません。そして、優しさの有限性を知るとき、循環する相手を選んで与える意義にも、与えられる必然性にも気づくのです。

終わりに

 あれだけ優しかった人がなぜあんなにも他人に厳しくなったのか。優しかった時代を知らない他人は、厳しくなったあの人だけを見て非難するかもしれません。個人が優しくあり続けるためにも、与えられるだけ与えるのではなく、これもまたバランス良くというのが個人的な経験則です。

『あの人は優しいから』という褒め言葉も、本当は『あの人は優しくあろうと努める人だから』が複雑な事情を包んだ温かい言葉になるのかなと思います。

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