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何かをやめたいなら、何かを始めること

 人間は何かをやめたいと思ってもなかなかやめられないものです。惰性で続けてしまったり、場合によっては依存もあるかもしれません。そんなとき、全く別の新しいことを始めると、いつの間にかやめたい物事をやめられているなんてことがよくあります

 そんな知っている人は知っている話ですが、この視点は発想の転換として非常に興味深く、人間が我慢のようなネガティブな直感よりもポジティブな楽しい直感に導かれる性質を表しているようにも思えます。

楽しいに導かれる感性から

 さて、ここで終わっては味気ないため、少し発展的な考えに広げてみます。日常的なコミュニケーションにしても、noteのような文章にしても、他人に伝えたいと思うとき、ついつい多くの言葉(文字)で語りたくなってしまいます。きっと思考を精緻に言語化すれば、より伝わるだろうと思い込むわけです。ちなみに私自身はよく陥ります。

 もちろん、これは半分正しく、どうしたって説明に割かなければならない言葉があり、圧縮したり、省略したりするにも限界がありますからね。

 しかし、『文字を読む』という行為を注意深く観察するとき、思考に負荷をかけていることもわかります。そこに感情が乗っているならなおのこと。いわば情報処理ですから、脳内機能を活用しなければなりません。

 脳内機能を活用し続ける思考体力とも言えるものは、筋トレと同じで普段から負荷をかけていなければ慣れないものです。つまり、先に述べた「ネガティブな直感より—」と同様に、本来的に文字を読む行為は避けたくなるものと考えられます。

 特に昨今は“動画全盛”の時代。SNSの短文コミュニケーションも手伝い、若い世代ほど長い文章に慣れていないかもしれません。これは“文学全盛”の時代を生きた上の世代を観察するとよくわかりますし、環境によって形成される人間の異なる姿を強く実感します。

 そして、このことからは『伝える』という行為の深遠さも浮かび上がります。『伝える』に思いを馳せるとき、言葉によって伝えられるものの限界、用いるほどに伝えられなくなるジレンマを感じるはず。行間然り、温かく見守るだけで浸潤するものもまた重要であることに気づかされます。

 ただし、必ずしも『負荷=悪い』ではないことは強調しておきます。成長を求めるときには、むしろ負荷が必要ですから。

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