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大人の反省

『普通への想像力』にて、生きることは普通から遠ざかることであり、普通について考える重要性に気づいた話をしました。今回はそれに近い話を綴りたいと思います。

 結論から先に述べると、世の中は大人の反省一つで平和になることが多いのではということです。

怒られなくなる大人

 大人になると、他人から怒られなくなる。と語られるように、実際に大人になると他人から怒られる頻度は減ります。これには様々な理由が想像できますが、総じて諦めの気持ちが大きいように感じています。

 言ったところで直らない。反感を買いかねない。自分が正しいかどうかもわからない。そんな状態で「さすがにそれはどうなのだろうか?」と懐疑的に見える大人を目の前にしても、わざわざ言うことに対して自分には何も得がないことを悟ってしまうわけです。

 他方で、自分自身が怒られる側を想像すれば、大人なりに育った無駄なプライドによって聞く耳を持たないなんてこともあるでしょう。

 なので、拗らせた大人はとことん拗らせ、場合によっては誰からも相手にされなくなります。そこに過剰な自己肯定が加われば、大人の世界が混沌とする様相も簡単に想像できるかもしれません。

暴走する大人

 接客業などを除けば、多くの大人が限られた人間関係の中で生活していますから、怒られない事情も手伝って、心配になるような変化を遂げることがそこそこ高い確率で起こり得ます。

 昨今、「他人の目を気にせずに生きる」という言葉がもてはやされることもありますが、それは普段から他人の目を気にしすぎて苦しんでいる人に対する励ましであって、他人の目を気にせずに生きている大人の開き直りや免罪符ではないと解釈しています。何事もバランス。本当に全員が他人の目を気にせずに生きてしまったら大変な世の中になりますから。

 本来ならば、学問や他人との関わりを通じて、論理や反省を獲得することが自分自身へのブレーキになりますが、それもなければ暴走の一途を辿る他なくなります。そうならざるを得ない不条理な社会を理解しつつも、大人の世界が混沌とする原因の一つを、自己の客観視、反省に求めました。

反省と哲学

 反省と言っても、この文脈においては普段からの心がけとしての内省に近いものになります。先に述べたような大人の事情を考えるとき、歳を重ねるほど反省する機会を設けた方が人間的にバランスを欠かなくて済むのはわかるはずです。

 ただ、反省とは自己の客観視であり、自己の在り方の再検討とすれば、そもそも生きる目的や社会(他人)との関係をどのように考えるかによって導かれる答えは大きく異なります

 もし、自己愛にばかり満ちていれば、反省は他人からの面倒な怒りを回避するだけのポーズとして選択されるばかりです。私も含め、反省によって浮かび上がる個人の本質なんてその程度なのかもしれませんが、どこかで社会(他人)との建設的な関係を考え、自己の在り方を模索する人の反省には心動かされるものがあるのも事実と思います。

 そして、反省できる余裕を持ち合わせた人とは積極的に関係を結びたいと思えるけれど、そうではない人との関係には感情労働のコストが頭を過ってしまうのが本音なのです。

終わりに

 きっと反省について考えるなんて少数派も良いところで、だから反省なんて上手にできないのが普通なのかもしれません。また、こうして文字に起こしてしまうと、反省の窮屈な要求として映ってしまう点はひとまず目を瞑らせてください。

 いかにして力を抜きながら本質的な主張をするか。他の意見を受け入れる余裕を残しながら、柔らかくも強くありたいと思う今日この頃でした。

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