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普通への想像力

 最近、物事の平均値(場合によっては中央値)から語る必要性に触れ、普通への想像力がまだまだ足りない自分に気づきました。その中で思案した人間の哲学を少し書き留めておきます。

生きるとは、普通から遠ざかること

 この文脈において『普通の定義』はさして重要ではなく、各々が考える『普通』で差し支えありません。生きている中で、どこか普通とは違う感覚を抱いた経験があるなら話は通じます。

 なぜ、私は普通への想像力が足りていないことを考えるに至ったのか?というと、『生きる』とは『普通ではなくなること』を意味し、普通ではなくなった場合に普通の人々とのコミュニケーションが難しくなる事実を、いつの間にか忘れていたことに気づいたからです

 普通ではなくなるとは、別におかしな人間になるという意味ではなく、元の位置から移動する、平均から離れるイメージがわかりやすいかもしれません。そもそも生まれた時点で自分と他人は違うという事実も加味する必要がありますが、それ以上に意識的に選択を積み重ねる行為が普通(大衆)から離れる、すなわち他人とのコミュニケーションを阻害する要因として働いている事実がありました

 難しい言い回しになっているかもしれませんが、要するに『気づかぬうちに話が合わなくなる気づきにくい必然性』に気づいたということです。

普通を忘れること

 では、なぜそれが『気づきにくい必然性』になっているのか?というと、移動する前の自分を全く意識していないからです。例えば、勉強をする前の自分を明確に覚えようともしませんし、覚えてもいられませんよね。勉強を繰り返すことで、比較できるほどの変化量を伴ったらわかるかもしれませんが。

 また、自分と(思考や行動パターンの)同じ人間のいるコミュニティに所属している場合などにおいて、自分が普通ではない事実に気づきにくいこともわかるでしょう。この場合、コミュニティの外に出て初めて『普通ではない自分』に気づくことになります

 さらに勉強やスポーツ、仕事などを積み重ねて優秀になるような普通ではない価値を追い求める場合、普通を積極的に忘れてもおかしくありません。

普通を想像すること

 これは特に専門領域やニッチな趣味を持っている人が陥りやすい問題だろうと思います。もちろん、普通の人などいないと考えれば、誰もが陥る問題です。

 私の場合、哲学っぽいものが好きなので顕著に感じています。その発散として『note』はちょうど良いものですが、不特定多数との接点を持つとそれなりに自分自身の異質さに気づきます。異質は個性とも。

 そして、このまま自分が楽しいなら我が道を進み続ければ良いと思いながらも、普通との距離もわからず、誰からも理解されない状態を本当に許容できるのか?という問いには未だ上手に答えられていません。

 そこで少なくとも『普通』について考えるだけでも違うのではないかと思うに至りました。個性と普通は矛盾していますが、個人と社会は共存しなければならない都合上、特に現代のSNSにおけるエコーチェンバー現象然り、個性を追求しながらも普通の視点を忘れずにいるという対応は想像以上に大切な気がします。

終わりに

 以下の動画は『ゼロ知識証明』という専門的な話を5段階のレベルに分けて説明を試みる内容です。動画の趣旨とは違う見方ですが、これが普通との距離感、大衆との接点を示すわかりやすいものになっているので載せておきます。

 きっと『普通ではない』は紙一重なのです。創作の世界ではよくあるかもしれませんが、社会的な損失を生むわけでもないなら、むしろ普通ではなくなる感覚を乗り越えて唯一無二の個性を欲するはず。

 そのため、孤独を恐れてはならないこともわかりますし、その境地に至るからこそ最大の理解者に最高の敬意を示せるのでしょう。しかし、本当の意味で普通ではなくなっているのかというと難しいところです。それこそ今回述べたような『普通』の視点だけは失っていないような気がします。でなければ、共感の類を生み出せませんから。

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