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楽しさの深み

 最近、ある物語を最後まで読み通せて楽しめた体験があったのだけど、そのときにふと思ったことがある。「もし、学生時代の自分だったら、この物語をどのように感じていただろうか?」と。きっと〇〇の部分は理解できていなかっただろうし、それによって評価は大きく変わっていたかもしれない。その分、△△には強く共感していたかもしれないな。

 そんな風に想像していると、「そもそも楽しさって何だ?」という気分になった。人間にとっての楽しさとは、基本的に主観的なものを指すが、物語のように言語的な作品は特に思考を刺激するから客観性を感じざるを得ない。自分は楽しくなかったけれど、「物語としてはよくできている」「その物語を楽しめる人はいる」などと客観的な評価を与えられるということだ。

 さらに言えば、そうした客観的な評価が高い場合、「今の自分には楽しめなかったが、将来の自分、あるいは過去の自分だったら楽しめたかもしれない」とまで言えることがある。さらにさらに付け加えると、客観的な評価だって新たな情報が加われば変わることだってよくある。

 つまり、私たちの語る楽しさとは「自分と対象(作品)における刹那的な関係性の言及」に過ぎないのだ。そして、これを理解できると何が起こるのかというと、愛が生まれる。愛が生まれる?何を言っているんだ、飛躍にもほどがあると思うかもしれないし、私もここを着地点にするか些か悩みもした。しかし、作品に時間を割くことも、作品を理解することも、他人と良好な関係を築こうとする意思、すなわち愛情に近いものがなければ成り立たないことはわかると思う。

 哲学には「エポケー」という考え方があって、簡単に言えば判断を保留すること。人間は判断を急ぐと主観的に切り捨てがちだし、客観的なものを本当に客観的に捉えるには主観的な一切を排除しなければならない。理解できない他人(作品)に直情的に「つまらなかった」と言い放ってしまえば、今後二度と関わりを持つことがなくなる。物語の理解度ひとつで評価なんて大きく変わる。理解できる能力や経験ひとつでもまた同じ。変化し続ける人間にとって、切り取られた一瞬が未来永劫を決定するなんてのは確かに浅はかだと思う。

 こうした楽しさの深みを知ると、つまらない作品なんてないかもしれないと思えるようになった。食べ物の美味しさはどう足掻いても覆りにくいところがあるのだけど、物語は違う気がする。いや、実際にはそれでもあるだろうけど、人間の言う楽しさなんて曖昧なもので、曖昧なものなら前向きに解釈して損はないだろうということかもしれない。

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