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他人との距離感は不平等でも

 誰しも他人を嫌うことがありますが、私はできるだけ『苦手』の枠組みから語るようにしています。それは一度でも嫌いになった相手のことなんて考えたくないし、見たくもないという自己防衛が働いてしまって自分の世界が閉じてしまうからです。

お互いの世界を守りながら

 自分の世界が閉じて悪いことでもあるのか?と言うと、自己の価値観に固執し、他人との摩擦が大きくなる弊害が挙げられます。これは一度や二度ではなく、自分にとって都合の悪い相手が現れるたびにどんどん自分の世界が小さくなることを意味していますから、とんでもなく偏った考え方と厳しい人当たりに変貌する一途を辿ってもおかしくありません。

 では、全ての人間と平等に仲良くできるのか?と言うと、これも現実的に難しいと言わざるを得ません。世代が違う、性別が違う、習慣が違う、価値観が違う、そんな複雑な条件下で他人と何の忖度もなくできる会話と言えば「天気」の話くらいです。

 子供の頃から謳われる「みんなと仲良くしましょう」を地で行くと、そうした表面的な会話にもどこかフラストレーションを溜めてしまうかもしれませんが、実際には自分と共通点が多いなら近い距離感となり、そうではないなら遠い距離感になるというのは自然なことです。日本人が欧米人と話をするとき、お互いの文化に気を遣いながら言葉を選ぶように、距離感の遠近を問わず、第一に尊重していれば問題ありません。

 そして、遠い距離感だからと言って、嫌っているわけではなく、仲良くなれないというわけでもありません。むしろ遠い距離感の相手だからこそ、慎重に理解を増やしていくという人間的な成長を経るため、大きな意味のある相手と言っても良いでしょう。この方が強固な関係に至る可能性まであります。

 誰とでも繋がれる現代だからこそ、相手に応じて適切な距離感を模索すること。現代を多様な社会への過渡期とすれば、こうした個々の距離感を調整し、適切な距離感とは何か?を考える時期かもしれません。

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