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大人の類型化思考と老化

 大人になったというか、老いたなぁと思うことが少しずつ増えてきた今日この頃に、大人の類型化思考について少し書き留めておきたい。類型化思考とは、簡単に言えば「〇〇は△△だ」とステレオタイプに判断してしまうこと。これは曲がりなりにも経験や知識が増えた大人が良くも悪くも陥りがちな思考だと思う。

 良くも悪くもと言ったのは、実際に人間や物事に対して、一個人の経験や知識から類型化された結論には一理あるからだ。例えば、今流行りのあれこれを見たとき、一昔前のあれこれと似ていると感じることがある。それは制作者たちが一昔前のあれこれを経験した上で制作しているから、どうしても似てしまう。同じ時代を生きた人間なら、影響を受けた作品を言い当てることも難しくないだろう。アイディアを組み合わせの妙と言うのならなのこと、土台となったあれこれへの直観は否定できない。

 一方、こうした類型化思考は人間の老化と結びついているとも思う。類型化思考と言うとどこか聞こえはいいものの、思考停止と言っても差し支えないものがそこにはある。「自分はすでにその人間や物事を知っている」と言い切れる快感は全能感に似ていて、全て知っているのだからそれ以上の思考は必要ない、すなわち思考にかかる負荷が一切なくなるのだ。誰だって小難しく考えたくない。自分が正しい、自分が全てなら、世の中は単純明快になる。

 しかし、世の中も人間も物事もそう単純にできていない。類型化される側に立つと不快感もあるかもしれない。科学だってまだまだ未解明の領域が数えきれないほどあるわけで、一個人の知見はその足元にも及ばない。変化するものなんて、昨日と今日で全然違うことも日常茶飯事だ。ゆえに基本的には自分の見ている世界は目の前に広がる世界をほとんど間違って、偏って、あるいは良く言えばユニークに捉えている。

 事実、何でも良いから学んでみるとよくわかる。知らなかったことを知った瞬間に新しい世界が広がって、以前の自分の世界観は大きく崩れる。何も知らない自分を知って、類型化思考の罠、老化による逃避的な思考であったことにも気づく。本当は大人になるほど物事を知るわけだから、その分だけ考えなければならないのだけど、老化によって奪われる思考の体力と集中力がそれを望もうとしない。結果、私は沈黙することが増えてしまった。でもこれもまた成長と言えるのかもしれない。

 

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