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動くと足下が見えなくなる

 生きるとは、動き続けることと同義ですが、動くと必ず足下が見えなくなるジレンマが人間にはあります。常に思慮深く、周囲に配慮し続けながら行動することは残念ながらできません。この文章を書く私自身も、この文章が正しいというような幾何かの肯定感と共に書くことしかできず、見えなくなった足下によって傷つけてしまう可能性は否定できません。

 他人に優しい人ほど、言葉を選び、影響を考え、時には沈黙して動きが遅くなるのは必然なのです。ただ、人間社会には競争的な側面がありますから、動きの遅い人は淘汰されてしまいます。人間社会の競争で生き残る人は心優しいというより、図々しいまでに鈍感な人である事実をおそらく皆さんも知っているでしょう。

 私は社会や人間に対する解像度が年齢と共に上がってきたとき、社会的な問いをはじめ、身近な人間関係においても『何が正しいのか?』がわからなくなり、自分の言葉を紡ぐことが難しくなりました。日々、自分が無知である現実に耐えるだけで必死かもしれません。

 人間にとって動き続けることは至極当然のことながらも、社会(他人)との関係においては動いて見えなくなった足下、すなわち自己に執着した分だけ他人を傷つけることがあります。人間は生きているだけで誰かを傷つけるという現実は、人間にとって認めたくないものかもしれませんが、綺麗事を抜きにして語れば、紛れもない現実であると私は感じています。

 では、その中でどのように生きるのか。SNSでは自己顕示欲や承認欲求が頻繁に語られるように、自己への執着を加速させる要素が多いため、周りが見えなくなる人も傷つく人も多い。このnoteも、私にしても、その影響は免れません。人間は自らの盲点に自覚的にならない限り、同種の問題が繰り返されてしまうのではと危惧します。

 私は見えない足下に備えて、内省的に生きる道を選びつつありますが、いくつかのぶっきらぼうな感情を失ったような気がして上手くいっているのかどうかはわかりません。不要なほど大きくなった自我を健全に小さくする過程になっているのか、フラットな視点から他人に優しくなれていたらとは思います。

 中身がないのに尖っていた学生時代と比べれば、今はちっぽけな自分を認めて、地に足つけて歩めている気がするのは人間的な成長と思いたいところです。人間としての原点に返りながら、自分にできる建設的なことを小さくとも追求する姿にこそ、本当の意味での豊かさや優しさがあるのではないかと大人になった今は思います。

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