【コラム】『精進落とし』

萩市の元遊郭の旅館に泊まっている。

遊郭といえば僕のイメージとしては昔の城下・都・港町を中心に広がったひとつの文化だと思っていたが、遊郭で遊郭に関する本を見つけ読み進めてみると、どうやらそれだけではなかったようだ。

その昔、今のように鉄道もバスもなかった時代。人々の移動手段は馬か徒歩、まあ庶民の多くは徒歩でしょう。

そんな時代に「一生に一回」と言われるほど参拝の対象となった神社仏閣。そんな門前町にも遊郭が存在したらしい。有名なところでは伊勢神宮。奈良・生駒の聖天さん。

僕は伊勢神宮には何十回と行ったことがあったのにそんな事実も知らずまだまだ世界は広いなあと痛感。通り一本川一本挟んでこちらとあちらでは別世界、ということがまだまだ現代にも残っている。まるでガンジスのような場所。

そんな門前町の遊郭で遊ぶことから生まれた言葉が『精進落とし』だそう。

元々は四十九日明け(忌明け)に精進料理から通常の料理に戻すことを『精進落とし』といったそうで、察するに神仏界における「ラマダン明け」といった具合だったのだろう。現在でも葬儀の後に喪主・遺族が参列者をもてなす宴席を『精進落とし』といったりするそうだ。知らないことが多すぎて胸キュンする。

そこから「一生に一回」のために何十日間も歩き続け(それこそが苦行である)、そして終着地の一大聖地にて念願だった参拝を終え、そこから「俗世」へと還る。その帰路、遊郭へと立ち寄ることを『精進落とし』とウィット含めて呼んだことが始まりだそうだ。

そりゃあ何十回も伊勢神宮に行ってしまっては『精進落とし』の意味もなければそのきかっけも見失う。新幹線も飛行機も近鉄特急も発達してしまった現代では、こうした本当の意味での『精進落とし』はもう味わえないのかもしれない。

「一本抜いてく?」
・・・イージーな現代人からすると、過去の『精進落とし』はなんとも崇高な出来事にみえる。『落とす』方も落とす方だが、もてなす方ももてなす方。手厚いおもてなしがなされていたことが想像に易し。

思えば今回のコロナ自粛明けに僕は『精進落とし』をした。そのことはやはり楽しい一時であった。苦行からの解放。そのきっかけ。こじつけをし、自己の煩悩を肯定する。

たった一本の道を超え、俗世へと還ってゆく。

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