トガノイバラ#82 -4 悲哀の飛沫…23…
◇ ◆ ◇ ◆
ただ突っ立っていることしかできないのが、琉里には悔しい。
伊明の血の匂いに、また意識が持っていかれそうになる。せめて視界に入れないようにするしか、琉里にはできない。
彼の――張間の強さは診療所で痛感している。自分では歯が立たないだろうこともわかっている。遠野でも、父ですら、勝利が見えないと思うほどの相手だった。
技術的なものもある。実戦の慣れ方も違う。
でもそれ以上に、己のもつギルワーへの憎悪と、御木崎家というシンルーの一族に対して、忠実すぎるほど忠実なのだ。
だからこそ、これほど冷酷無慙になれる。たとえ相手が伊明でも、御木崎家の意にそぐわないのなら少しの手心も加えない。
私も闘う、と何度訴えたことか。
でも口に出せばそのたびに「下がってろ」と退けられる。
張間との伊明の闘いは、倒れては立ち上がり、立ち上がってはまた倒され――その繰り返しでしかなかった。
たぶん、伊明が従うと言うまで終わらない。
自ら琉里を差しだすまで終わらない。
でも伊明はきっと、絶対、それを言わない。そうしない。
――それが、琉里には悔しくてたまらない。
「琉里」
伊明の声にはっとして振り返る。
血の混じった唾を吐きながら、伊明は地面に膝をついたままうざったそうに耳に手をやった。インカムだった。ポケットから取り出した受信機とひと纏めにして、琉里のほうに放り投げる。
「つけてろ」
その動きに合わせて、左腕の――適当としか言えない巻かれ方をした――包帯の両端がひらひらと揺れる。張間との一騎打ちを前に、伊明が自ら右手と口を不器用に使って巻き直したのだ。琉里は手伝えなかった。張間は律儀に終わるのを待っていた。
琉里はインカムを拾い、耳にあててみる。
――……ジジ……ジジ……。
「無駄ですよ。この敷地内ではすべての無線機器が通信不能となります」
確かに張間の言うとおり、聞こえてくるのは耳障りなノイズだけだった。
「なんのためにつけているのか知りませんが――」
言い終わらぬうち。
伊明が身を起こすと同時に地面を蹴った。
張間の胴に組みつくように突進する。しかし張間は難なくいなして、伊明の後ろ首にとんと軽い手刀を落とした。
「くっ――」
伊明の膝がかくんと抜ける。体が沈みかける。
「……ッそがぁ――!」
普段の伊明からは考えられないような声が、姿勢が、琉里の身を心をそばだたせる。高揚する。シンルーの血がそうさせるのか伊明の気勢に感化されているのかわからない。目をそらすことができなくなって、より意識がもっていかれそうになる。悪循環もいいところだが――琉里は懸命に、唇を噛み、耐えた。
伊明は不安定な体勢から強引な反撃に出た。両手を地面につっぱり、無理くり腰をねじって上体を反転させ、かかとで空気を浚うような回し蹴りを放つ。
脇腹に、入った。
張間の顔がにわかに歪む。伊明は汚れた顔にしてやったりの笑みを浮かべた。琉里も思わず、やった、と叫びそうになった――けれど。
次の瞬間には、張間は伊明の足を捕らえていた。足首を脇に挟み、体を引くようにして横を向く。自然、伊明は引きずられる形になってバランスをくずし、地面に尻をついた。
振りほどこうと伊明がもがく。張間の腕はびくともしない。
「御存知ですか、伊明様。膝というのは複雑な構造をしているわりに、案外脆いものなんです。しかも一度壊れるとそう簡単には戻らない」
張間の拳がとつとつと伊明の膝をたたく。
「……脅しのつもりかよ」
「いいえ。リスクの説明です」
淡々と、張間は告げる。
「あなたがギルワーごときのためにここまで粘るとは、正直、私も思っていませんでした」
「妹だっていってんだろ」
「どちらでも構いませんが。――あまり遊んでもいられませんのでね、そろそろご決断いただきたい」
伊明は張間を睨み据えている。降参する気のないことは、その表情を見れば瞭然だ。張間の顔にもまた情はない。
「二択ですよ、伊明様。膝を壊された上で『妹』も奪われるか、壊す前に『妹』を奪われるか。遠回りするか近道をするか――過程を選ぶだけの無駄な二択、行きつく先はひとつですが、さて、どうされますか」
「いいよ伊明、私――」
「黙ってろ!」
鋭い制止。でも、と琉里は口の中でつぶやいた。
このままなにもしないで捕まるくらいなら――。
「あんたらほんとに底意地悪いな」
「不本意ですが、致し方なく」
は、と伊明は吐き捨てるように笑った。
「琉里。こいつはお前を挑発してる」
「え……?」
――私、を?
張間が軽く肩をすくめた。
「できることなら伊明様ご自身に御決断いただきたかったのですがね。……彼女の実力は私も存じておりますよ。診療所で部下が何人か蹴散らされましたから」
「あたりまえだろ、俺ですら手合わせのたびに手焼いてたんだ。そいつらじゃろくろく相手にもならねーよ」
伊明は黒服たちを一瞥してふんと鼻を鳴らした。小馬鹿にされた彼らが色めきたつのを、張間がすかさず視線で制する。その瞳が琉里へ向いた。ふたたびとつとつと、これみよがしに膝をたたく。
つまり――。
完全に無防備な状態である琉里を放置しているのは、ほかの黒服たちでは力が及ばないと踏んでいるから。
張間自身が動こうにも伊明が邪魔をするからそうもいかない。
シンルーとしての決断は伊明には期待できそうもない、だから琉里が自ら張間のもとへ飛びこんでくるのを待っている――そのための挑発であると、いうことか。
張間はきっと、琉里に対しては、容赦はしないだろう。それこそ虫を叩き潰すみたいに、全力で応戦する。
結果として琉里は動けなくなり、それを目の前で見せつけられた伊明は――たぶん、こわれる。
「伊明様はお前のために膝を壊してもいいと言っているが――」
「琉里」
「――お前はどうだ」
「琉里、挑発に乗るな」
「でも、伊明」
「動くな」
琉里は唇をかんだ。悔しくってたまらない。
それでも伊明の目は動くなと言っている。
「ひとつ言っておきますが。片膝だけで済むと思わないほうがいい」
「殺されるのがわかってて妹を差しだすくらいなら、俺が死んで奪われたほうが百倍ましだ」
「……たしかに死んで奪われるのなら楽でしょうが」
死ねないでしょう、あなたは――。
張間の肘が、持ちあがった。
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