トガノイバラ #9 -1 血の目醒め…8…
遠野はすぐに電話に出た。
ちょうど院を出たところだというのでそこに居てくれと引き留めて、いま父が琉里を乗せて車で向かっている、急に倒れたのだと事情を説明しているうちに、電話の向こうでブレーキ音が聞こえ、遠野、と切迫した父の声が飛びこんできた。
あとで連絡するから、と遠野は言った。
俺が診るから大丈夫だ、心配するなと続いて、慌ただしく通話は切られた。
安心なんて、できるはずがなかった。
伊明は父の携帯電話を傍に置き、ダイニングテーブルに突っ伏したまま――ただ、待っていた。遠野からの連絡を。
琉里が心配だった。おそろしく不安だった。
倒れる直前に起きた不可解な出来事が頭のなかでループする。
あれはいったいなんだったのか。
現実とは思えない。いきなり白昼夢に引きずりこまれたみたいだった。
瞳の色とか匂いとか、錯覚だった幻覚だったと無理やり言い聞かせようともした。
でも、琉里の行動は明らかに異常だったし、それに対し、自分の中にある得体の知れないものが確実に呼応していた自覚もある。
採血のときの妙な感覚が琉里に向かって動いていく感じ――ぞわぞわと、無数のなめくじが神経を這っていくような感じが、いまだに体の中に残っている。
伊明は思わず口を押さえた。
気味が悪い。気持ちがわるい。
――ピリリリリ……。
伊生の携帯電話が鳴りだした。
思わず飛びついた伊明だったが、画面を見て落胆する。
発信元は遠野ではなかった。『御影佑征』と表示されている。父の知人か、仕事関係の人だろうか。読み方はわからないが、伊明のフルネームに負けず劣らずのゴツい字面だ。
ほどなく留守番電話に切り替わる。
『あ、もしもし、ミカゲですー。こんな時間にすいません、夕方に掛けるつもりやったんですけど、ちょっといろいろ立て込んでもうて――』
部屋が静かなせいもあるのだろうけれど、向こうの声量もとにかくすごい。聞く気もないのに一字一句が鮮明だ。
『うちで二つほど席が空きましたんで、ひとまずご報告しときます。ただ技術職なんで誰でもウェルカムってわけにはいかんのですけど……いや、まあ詳しくは来週、会ったときにお話さしてもらいますね。あと何度もすいませんけど、ソーケの件もそろそ――』
ピ――……。
よく喋る人である。
留守録の制限時間を超えて喋りつづける人を伊明は初めて見た。
どでかい声量、陽気な声音、関西方面と思しきイントネーション。
やはり仕事関係の電話――なのだろう、たぶん。私立探偵とは程遠い内容な気もするし、よくわからない単語も混じっていたしで、伊明にはまったく理解できなかったが――ともかくも、今はそんなことに気をやっている場合じゃない。
伊明はリビングの掛け時計へと目を向けた。時刻は午後九時を回っている。
父が出て行ってからどのくらい経ったのだろうか。混乱していたせいなのか、時間の感覚が完全になくなっていた。
――ピリリリリ……。
ふたたび父の携帯電話への着信。しかしこれも遠野からではない。隣県の市外局番から始まる、未登録の番号である。
「なんだよ、もう……」
気が抜ける。伊明はテーブルに突っ伏した。
――ピリリリリ……。
――ピリリリリ……。
――ピリリリリ……。
その番号からの着信は何度も続いた。留守電に切り替わると切れ、またすぐに掛かってくる。それを繰り返し、三回、四回。
五回。
たまらず伊明は身を起こした。携帯電話を取りあげる。
用件を聞いてさっさと切ってしまうつもりだった。
「もしもし」
『……』
虚を突かれたような、息をのむ微かな音。短い沈黙。戸惑いがちに返ってきたのは。
『伊生、さん?』
たおやかな、女性の声だった。
出なければよかったと、伊明は即座に後悔した。
たった一言、ほんの短い呼びかけ一つ。だというのに、その声は、その温度は、父との距離の近さを感じさせるに十分で。
「……すみません、父は今ちょっと出ていて。ケータイ置いてってるんです。何度も掛かってきたから、大事な用が――仕事関係の大事な用でもあるのかと思って」
『父』と『仕事関係』の部分をことさら強調する。
できるかぎり冷静に。平静を、装って。
「伝言があるなら伝えときますけど」
相手の女が諸々を察してごまかすなり話を合わせるなりしてくれればいいと心の底から願った。
しかし向こうは、また沈黙してしまう。
――本当に、嫌になる。
よりにもよってこんなときに。こんな状況のときに。
伊明は額をおさえて溜息をついた。折り返すよう伝えましょうか、と付け加えようと口をひらく。
『伊明?』
「……え?」
唐突に発せられた自分の名。思わずまばたく。
『伊明なの?』
今度は、伊明が沈黙する番だった。
女の声には抑制された静けさがあった。こみあげてくる感情を、押しあがってくる衝動を、喉で抑え、引き絞って、引き絞って、ようやくこぼしたような声。
心がざわつく。
名乗った覚えは、もちろんない。
「え、と」
かろうじて出せたのは、そんな無意味な二音だけ。けれど彼女はそれで確信したようだった。
そう、伊明、あなたなのね――。
ひとり言のように呟いて、
『ああ、ごめんなさい。驚かせてしまったわね』
くすりと笑って、言った。
『昔、あなたがまだ赤んぼうだったころ――少しだけ一緒に暮らしたことがあるの。……親戚のおばさんよ。御木崎の』
御木崎の。
「父さんの……?」
『ええ。ごめんなさいね、いきなり伊明だなんて馴れ馴れしく呼んでしまって。あんまり懐かしかったものだから、つい』
「……はあ……」
――親戚のおばさん? 一緒に暮らしたことがある、って?
そんな話、いままで一度も聞いたことがない。
父は、若い頃に勘当されて実家とは絶縁状態、のはずである。それも伊明たちが生まれるより前の話であり、以来、親兄弟親類の誰とも連絡を取っていない、と――本人自らそう言っていたのに。
携帯を握る手に力がこもる。
この電話はいったいなんだ。
親戚と名乗るこの人は、いったいなんだ。
『じつは、御木崎家のことで、どうしても伊生さんと直接お話がしたくって』
たおやかな声が沈黙を浚っていく。
『申し訳ないんだけれど――伝言、お願いしてもいいかしら』
「……ぁ? え、あ、はい。あ、ちょっと待ってください、書くもの……」
伊明は慌ててリビングに据えてある固定電話のそばに行った。そこにはメモパッドが常備されている。
『おとうさまの葬儀は済ませました。そのうえで、今後のことをちゃんと話し合いましょう、って。この番号でも構わないけれど、もし家の者と話したくないのなら、今から言う番号に折り返すように――伝えていただける?』
繋がりにくいとは思うけれど履歴は残るから、と前置きをして、彼女は携帯電話の番号を口にした。伊明はメモ用紙にその数字だけを書きつける。
彼女はよろしくと念を押したあと、
『……あなたの声が聞けてよかった』
やわらかな微笑の見える声で、そう言った。
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