僕のねこ、夏 #4 ねこの異変…1…


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 ある日、僕のねこが吐いた。

 驚いたのだが飯塚に話してみるとなんのことはない、猫ならばあってしかるべきことだそうだ。毛づくろいで飲みこんだ毛を、まとめてぺっと吐きだすらしい。

 僕は、吐くという行為の、あの胃がせり上がってくるような苦しさが大嫌いであるから、そんなふうになるくらいならいっそ毛づくろいなどしなければいいのにと思ってしまうし、外でゴロゴロした体をなめまわすというのもまた理解しがたい。

 なにより嫌なのは、その後片付けがどうしたって僕の役割になることである。吐しゃ物を処理するこっちの身にもなってくれ、とぼやかずにはいられなかった。けれど夏は、そんな僕の前で、すました顔で毛づくろいを始めるのである。

 あるとき、また夏が吐いた。
 その日は飯も食わなかった。散歩にも行かなかった。

 不審に思った僕は、布団の上ですやすや眠る夏を注意深く観察した。目に見える異変はなく、翌朝にはしれっとした顔で飯を食い散歩に出かけていったので、僕は単純に、突発的な体調不良だろうと考えた。そのくらい、僕にだってある。

 ただ飯塚には、病院に連れていくよう強く勧められた。

 猫というのは存外デリケートな生きものだから気を付けてやったほうがいい、とのことである。

 外を駆けまわる野良の夏を知っているだけに、僕は、素直には頷けなかった。ましてや体調不良を起こしてから五日も経った晩のことであったから、様子を見てみます、とだけ答えておいた。

 じつを言うと、僕は、病院という名のあの空間が大嫌いなのである。別段なにか嫌な思いをさせられたわけでもない。ただ単に、嫌いなのだ。

 言うなればあそこは、僕にとって完全なる異空間だ。

 そんなところで身をかたくして順番を待ち、見ず知らずの医者なる人物にあれこれ聞かれながら丸裸にされ、得体の知れない器具によって体の中を検分されるというのは、それだけで多大なストレスを感じてしまう。しかも夏を連れていくのなら、動物病院という未知なる異空間であるのだから、なおさら気が進まなかった。

 幸いにして、夏はそれから元気だった。
 腹が減ったらみゃあと鳴き、ぽかぽかとした午後の匂いに誘われて散歩に出かけ、帰ってくるなり僕のふとんを陣取った。

 やはりあれは飯塚の杞憂であったのだと安心したころ、夏が、また飯を食わずに吐いた。

 僕は、夏を病院に連れていく大きな決意をした。
 同居を始めて、すでに三度目の秋を迎えたばかりのころである。

 よし、病院に行くぞ、と気合いの入った声をあげた僕は、甚平の上に羽織っていた紺色のカーディガンを脱ぎ捨てて、かわりに、着古した黒のジャケットに袖を通した。ボタンも取れかかっているような、いつ購入したかも思い出せない代物であるが、僕にとってはよそ行き用のジャケットである。

 念のためポケットに一万円札を二枚突っ込んでから、夏を抱え上げた。すると夏は、白いつま先をきゅうとまるめて、僕の胸にしがみついてきた。

 僕はびっくりした。びっくりして、夏を見た。

 考えてみれば、ずいぶん長く共に暮らしていたというのに、それまで夏を抱いたことなど一度もなかったのである。いや一度だけあったか、例の路地から連れ帰ったあの雨の日だ。

 よく撫でてやったし、腹をさすってやることもあったのだが、あれ以来こうしてよいせと抱くことは一度たりともしていなかった。

 見るかぎり夏は、いつもどおりの夏だった。けれど、体はふるえていたし、僕のジャケットに食いこませたつま先を離そうともしなかった。

 僕の胸の中で、見知らぬ感情がむくっとふくらんだ。庇護欲とかそんな名前のもので、もしかすると胸の奥底にずっとあったのかもしれない。ただ僕は、このときに初めてそれを自覚した。

 僕は夏をなだめた。具合が悪いのか病院に行きたくないのか判断できかねて、苦しいのかと尋ねたり、病院はこわくないからと言って聞かせた。

 しかし夏を抱えて玄関を出たとたん、僕は途方に暮れた。動物病院がどこにあるのか、知らなかったのである。

 僕は飯塚を頼って、隣の家のインターフォンを押した。応答があり、間もなく出てきたのは、あの小洒落たつまみを作る飯塚の奥方だった。

 てっきり飯塚本人と会えるものと思っていた僕は面食らった。奥方と顔をつき合わせること自体、これが初めてだった。

「まあ、おめずらしい。どうなさったんです」

 余裕と品でできあがった奥方の笑顔に、僕はたじろいだ。

「ご主人は」
「あいにく仕事に行っておりますけれど」
「仕事」

 僕はまた途方に暮れた。

「猫ちゃんになにかありましたの」

 奥方の神妙な声にはっとした。慌てて口をひらく。

「飯を食わないんです」
「まあまあ、それは。お医者さまには診せましたの」
「いえ、これから。これからです。前にご主人がそうするべきだと言っていたから、ぜひそうしようと思って出てきたんです。でも僕は、動物病院なんて行ったことがないから場所も知らない、わからないんです。だからご主人に教えてもらおうと思って」

 僕はしどろもどろに答えた。

 以前、飯塚に抱いていた苦手意識とはまた違った種類のそれを、この奥方に対して持っていた。もちろんそれは拭えていない。それどころか、対面したそばからどっと増した。

 愛想よく微笑む奥方の顔の中で、目だけが、まるで値踏みするように冷淡な色を持って僕の上を動きまわっている。

 居心地の悪さに、今度は僕が夏にしがみついた。わきの下に、背中に、厭な汗が吹き出してくる。

 奥方の目が、僕の顔に戻ってきた。

「それでしたら、主人よりも私のほうがお役に立てそうですわ。あのひと、病院に行くったって、私の後ろをただくっついてくるだけですもの」
「はあ。そうですか」
「いいお医者さまがいらっしゃるのよ。紹介しますわ。用意ができたら、もう一度寄っていただけますかしら」
「いえ、用意ならもうできています」

 奥方の目が、また僕の上を行ったり来たりした。

「そのまま行くおつもり?」

 首を傾げた奥方に、僕もまた首を傾げた。僕と僕のねこと金のほかに、いったいなにが必要だというのだろうか。

 突っ立ったままでいる僕を見て、奥方は苦笑した。

「来てくれてよかったわ。どうぞ、お上がりになって」
「場所だけ教えてもらえれば」

 慌てて、くるりと背中を向けた奥方に声を掛けた。けれど彼女は、僕の言葉などないものとしてしまったらしく、淡い黄色のスリッパを僕の前に置いてさっさと中に引っこんでしまった。

 そのまま帰ることもできず、僕はおそるおそる靴を脱いだ。

 初めて訪れる飯塚の家は、とにかく綺麗であった。隣り合う僕の家とはまるっきり違う。互いの敷地を区切る二つの塀が時の隔たりを生みだしているみたいだった。

 僕は、祖父母が住んでいた古い家をそのままもらい受けたので、時代遅れともいえるような、昭和の香り漂う民家にひとりで暮らしている。

 飯塚は、そんな僕の家をたいそう気に入っているらしい。
 こたつのある居間も、そこから見える雑草はびこる小さな庭も、歩くたびにぎしぎしと軋む廊下も、すべてにノスタルジーを感じるのだと言っていた。セピア色の過去が色づくのだとも言っていた。 

 それがもたらす心地よさを知っているからこそ、僕は、晩酌の場所としてこころよく僕の家の居間を提供しているのである。

 ただ床をぎしぎし鳴らせるのは飯塚だけであるのだが、彼自身はそのことにまったく気づいていないからおもしろい。

 そんな古くさい僕の家と違って、飯塚の家は洋風であり近代的であった。外観からしてもそうであるし、内装もまたそのとおりであった。しっかり手入れが行き届いているのか、もう十年以上もそこにあるというのにまるで年数を感じさせない。壁に掛けられたうつくしい風景画やところどころに置かれた繊細な花瓶が、家全体の雰囲気を豪奢かつ品良く見せていた。

 庭は庭で、定期的に刈り込まれているのだろう常緑樹が、その色と曲線美でもって彩っている。

 庶民的な生活感などかけらも見えなかった。

 しみひとつない白い壁と、ワックスの塗りたくられたフローリングが目にまぶしい。くらくらしてくる。僕は異世界へ迷いこんだような、心もとない気持ちになった。

 奥方を追いかけてリビングへ入った僕を、はだかんぼうのラッキーとクッキーが出迎えた。僕の足元にやってきた二匹について飯塚からいろいろ教授されていた僕は、どちらがラッキーでどちらがクッキーなのか、すぐに見当がついた。

 落ち着きなく足踏みしながら僕の靴下に鼻をすりつけているのが、クッキーだ。そのすこし後ろで、カウンターキッチンに入った奥方を窺いながらちらりちらりと僕を見てくるのが、ラッキーである。

 猫とはまったく違う動きを見せる二匹の対応に困った僕は、夏を抱いたまま、棒立ちになった。

「ラァちゃん、クゥちゃん。だめよ。め」

 奥方の滑稽な叱り方を笑う気にはなれなかった。二匹が僕から離れていくのを、やっぱり棒立ちになって見送った。

「どうぞ、お掛けになって」

 僕は促されるまま、ソファーに腰を下ろした。
 二人掛けのソファーがひとつ、一人掛けのソファーがふたつ、コの字型に並ぶそれらの中で、なぜかひとつだけが黒い革張りであった。ほかのふたつは、白い布製である。

 なんとなく、その黒いソファーに飯塚が座っている様子を想像した。
 想像の中の飯塚は、あの黒いジャージを着て、ロックグラスを傾けて、奥方の手料理に舌鼓を打っている。その足元には、寝そべっている二匹の犬。片方は飯塚の足先に顔を寄せていて、もう片方は奥方をちらちら見ながらフローリングに顎を置いている。

 そんな光景を頭の中に眺めた僕はとても奇妙だと思った。それなのになぜかすんなりと想像でき、ちぐはぐさは微塵も感じなかった。
 もしあの黒いソファーが僕の座る二人掛けのこれと同じ色であったなら、飯塚の姿だけが泡のごとく消え失せるだろうとも考えた。逆に飯塚が飯塚でなければ、あの黒いソファーがこの家のバランスをぐにゃりとゆがめてしまうだろうとも考えた。

 僕は、ふかふかのソファーに尻を沈め、夏を抱いたままそんなことを考えていた。

 奥方がカウンターキッチンから出てきた。銀色のトレイの上に、コーヒーカップをひとつとちいさな皿を乗せている。皿の上で金色銀色のアルミ箔に包まれたまんまるいチョコ菓子が、奥方の歩みに合わせてころころと揺れた。

「すぐ戻りますけれど。どうぞ召し上がって」

 奥方はこのとき、お構いなく、という、定型どおりの返しを待っていたのだとあとで知った。けれど僕は身を縮めて「はあ、どうも」と答えただけであった。

 夏を抱えたまま飲み食いするのはむずかしいと考えた僕は、夏を隣に下ろそうとした。

 夏は嫌がった。僕のジャケットにますますつめを立てた。

 悩んだ末、それでも下ろした。いつもせんべいぶとんか薄っぺらい僕の腹の上で寝ている夏だから、これだけふかふかと座り心地のよいソファーならば気に入るだろうと踏んだのである。

 しかしちいさな夏は僕ほど沈まず、ちょんと乗っただけだった。僕は、そばで身を縮める夏の腰をぽんぽんとたたいてやった。あの飯塚の家だから大丈夫だと声を掛けたが、そんな僕の声もずいぶんかたいものだった。

 奥方はほどなくして戻ってきた。花のモチーフのついた、なんともファンシーなプラスチック製のかごを抱えていた。

 ソファーに乗った夏を見て眉をひそめたけれど、それがほんの一瞬のできごとであったのと彼女がすぐに口をひらいてしまったせいで、僕はその理由を聞きそびれた。

「こういうもの、お持ちじゃないんでしょう。うちの子のお古だけど、良かったら使って」
「はあ。どうも」

 僕は、愛想笑いを取り戻した奥方から、そのかごへと目を移した。半透明のふたの下に、これまた花柄の淡い色の毛布が敷かれている。

 なるほど、これに夏を入れていけとそういうことかと理解した。

「猫ちゃんは、みんなそうしているのよ」
「抱いたままじゃいけないのですか」
「待ち時間もありますでしょ。それじゃあ猫ちゃんも……ええと、なんてお名前だったかしら」
「夏です」
「そうそう、ナツちゃんだって疲れてしまいますわ。それにほら、万が一逃げだしたら大変でしょう。ほかの飼い主さんたちにもご迷惑がかかるし、病院にも、ねえ」

 僕はむっとした。夏が厄介者扱いされたような気がしてならなかった。

「犬もそうするのですか」
「わんちゃんは、リードがつけられますでしょ」
「僕のねこにもリードをつければ、抱いたままでいいのですか」
「首輪とリードをお持ちでしたら、どうぞお好きになさって」

 奥方はその一言で切り上げた。気分を害したというよりも、僕との問答が面倒になったようである。

 僕はもう一度かごを見た。

 まず、この外見からしていやだった。自由気ままな夏をこの狭苦しいかごの中に閉じこめて、荷物のように持ち運ぶということにも抵抗があった。

 しかしあいにく、僕は首輪もリードも持っていない。

 うちの子のお古とやらを貸してくれないだろうかと期待したが、奥方はさっさと立ち上がって、またリビングから出ていってしまった。その背中を呼び止める勇気を僕は持ち合わせていなかった。

 意を決してかごの中に夏を入れた。夏はすっぽりとおさまった。体の向きを自由に変えられるだけの余裕もあった。けれどふたを閉めると、とたんに暴れはじめた。かごの中を引っ掻きまわした。

 つめがつるつるとすべる。みゃあ、みゃあ、と鳴く声が、出してくれ、出してくれと言っているように思えてならず、胸の奥がつんと痛んだ。

 夏が僕を見上げてみゃあと強く鳴いたとき、僕はとうとう耐えきれなくなって夏を出してやろうとした。

 そこへ、また奥方が戻ってきた。


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