僕のねこ、夏 #1 僕と僕のねこ


 はじめに、僕は物書きである。

 人の内側にある言葉にしがたい感情の機微を文字に起こすことにたいそう意欲的な、けれどもたいした稼ぎもないような、しがない物書きなのである。

 今までにどんなものを書いてきたのか、自己紹介がてらつらつら書きつらねてみようかと考えもしたのだが、あいにく、これは物書きとしての僕の話ではなく僕のねこの物語であるわけだから、そんな無粋をはたらくのは控えよう。

 僕のねこは、その辺をのしりのしりと歩いている野良たちと別段変わりのない普通の猫である。薄茶色というべきか白っぽい茶色というべきか、とにかくそんな色合いの、少々かたさのある短い毛に覆われた、いたって普通の猫である。

 特徴をひとつあげるとすれば、右の前足が白いことくらいだ。
 しかも、歩くたびにくね、くね、と曲がる、あの先っちょだけが白い。人間でいうところのつま先である。

 僕はしばらくそれに気づかなかったから、たぶん、僕のようにさして猫に執着しないたちの者ならばまず発見できないような、ちいさなちいさな特徴である。

 そのねこを、僕は「夏」と呼んでいた。
 「なつ」でもなく「ナツ」でもなく、「夏」である。

 この呼び名を紹介すると、たいていの人はメスだと勘違いするようだけれど、僕のねこはオスである。立派ないちもつの備わったオスである。

 とはいえ、夏に対してメスだのオスだの、そんな生物学的なくくりを使うのは、僕にはいまいちしっくりこない。夏は、夏である。あえて言葉にするのなら、幼い少年の気質を持ったねこであった。

 四年ほどともに過ごしたけれど、その印象は今でも変わっていない。人間の年齢になおせば、僕よりはるかに年上だろうに、まったくもって不思議である。

 さて、そんな右前足の先っちょだけが白い少年の夏であるが、今はもう、僕のねこではなくなった。誰のねこでもない。

 夏には、僕も、誰も、二度と会うことができない事実を、まず先に記しておこうと思う。


 僕と僕のねこが出会った経緯というのは、これまたドラマチックな要素もなく、いたって普通のものであった。

 僕はよく散歩をする。
 日がな一日パソコンの前にじっと座っているのもおもしろくないので、日に何度か外へ出て、目的もなく、ふらりふらりと歩きまわる。

 甚平を着た野暮ったい男が、平日の真っ昼間にのらくら徘徊しているのだから、近所の方々から注がれる視線と言うのは非常に冷ややかなものであった。

 けれども僕は、そんなもの一向に気にしない。ここは僕の住む町でもあるのだ、好きに歩きまわってなにが悪い。そう思うからこそ、堂々と、道のまんなかを歩いてやる。
 そうして見慣れた町のありふれた日常の中にひそむ、ほんのすこしの変化に目を留めて、季節のしわざなのか、はたまたそこに根ざした人々のしわざなのかと考えをめぐらせ、自分勝手な答えを導き出して満足をする。

 これが、僕の散歩の醍醐味だった。

 夏と初めて対面したのは、その帰り道のことである。
 そのときの僕は、なんともノスタルジックな気持ちに満たされていた。というのも、直前、気の向くままに立ち寄った公園の土の上に、無造作に散らばる風船のきれはしを見つけたからである。

 住宅地の中にぽつんと構える、猛々しく濃い緑と落ち着いた焦げ茶色からなる公園の中にぺたんぺたんと寝そべっていた大量のきれはしは、あざやかに、映えた。

 まるで沼に咲く水蓮。土に咲く野生の花。

 僕は目も心もうばわれた。
 しばらくの間、無心でそれを眺めた。

 ようやく、そうか子供たちが水風船でもやりあったのかと思いいたると、今度はそんなやんちゃをはたらく子供たちがいることに嬉しい気分になるとともに、その情景が、僕の少年時代の記憶と重なった。暮れ始めた空の橙までが加わって、よりいっそう僕を懐かしい気持ちにさせたのである。

 公園を出た僕は、できるだけ人通りの少ない、狭い路地を選んで帰路についた。
 するといつのまに現れたか、僕の数歩先を歩いていた薄茶だか白っぽい茶色だかの野良猫が、突然立ち止まってこちらを振り向き、みゃあと鳴いた。これが夏である。

 夏は、思わず足を止めた僕をじっと見つめたあと、またのしのしと歩きだした。僕も歩きだした。立ち上がったしっぽがゆらゆら揺れているのをなんとはなしに眺めていると、また夏が立ち止まって、振り返り、みゃあと鳴いた。僕はまた止まってしまった。

 まるでついてくるなと言わんばかりのその態度にむっとした。

 これは僕の帰り道である。勝手に入ってきて同じ方向に進んでいるのはお前じゃないかと言ってやりたくなった。

 けれどそもそも動物に話しかけること自体馬鹿らしいと考えていた僕は、わざと大股で、だしだし足音を立てて近づいた。夏は、ぴょーんと、うさぎが跳ねるような滑稽な動きを見せ、驚くほどの速さで逃げ出した。僕はにんまりして、その後ろ姿を見送ってやった。

 それから一か月の間に、こんなやりとりを四、五回は繰り返した。
 すると夏もだんだん度胸がついてきたらしく、六度目にもなると、僕が大股で近づいても逃げ出さなくなった。

 その日の僕は、季節ならではのうだるような暑さとまとわりつく湿気に嫌気がさして、立ち寄ったコンビニで購入した安価なアイスをがりがりかじりながら歩いていた。気休めにでもなればと思ったのだが、案外、口の中がすうと冷えて非常にこころよい。

 そんなさなか、例の路地で夏に遭遇したのである。

 僕はいつものように夏に近づいた。夏は逃げなかった。逃げないまま、地面にぺったりと尻をつけて僕を見上げた。その姿がなんだか愛らしく見えたので、気まぐれに手を伸ばしてみた。撫でてやろうと思ったのだ。

 しかし夏は、突然、ぴょーんと跳ねて逃げだした。

 それに驚いた僕は食いかけのアイスを地面に落としてしまって、ひどく口惜しい思いをさせられた。

 次のときも、夏は近づいただけでは逃げなかった。
 僕は夏の前にしゃがんだ。しばらくにらみあったあと、低い位置からゆっくりと手を伸ばしてみた。猫という生きものは、そうしてやらなければ怖がるのだと、本屋で立ち読みした専門誌にそう書いてあったからである。

 僕はまず、顎の下あたりに指を出してみた。ふんふんと、ちいさな鼻息が掛かるのがおもしろかった。頬を撫でてやった。夏は嫌がらなかった。気をよくした僕は、夏の頭にぼすんと手を乗せた。夏は、またぴょーんと跳ねて逃げだした。

 置いてきぼりをくらった僕は、夕焼け空にぽつとたたずむ子供のような、ひどくさびしい思いをさせられた。

 その次のときは、とかく慎重に動いたおかげで、ようやく夏の頭を撫でまわすことに成功した。

 猫がごろごろのどを鳴らすというのは知っていたけれど、このとき、僕にはぐるぐると聞こえた。ぐぐるるる、とも聞こえた。夏がそう鳴らしたのか、僕の耳がそう拾ったのかはわからないが、とにかく僕は、その特徴的な音に愛着を持った。
 満足のいくまで、夏の頭や背中を撫でまわした。夏は始終、ぐるぐる、ぐぐるるる、とのどを鳴らしていた。

 それ以来、僕は夏に対する認識を「散歩帰りに遭遇するただの野良猫」から、「帰り道で会う知っている猫」に改めた。

 それが「僕のねこ」になったのは、たまたま、一緒に夕立に降られたことがきっかけである。雨に濡らされるのが大嫌いな僕は、なんとなく夏をかかえて家に帰り、嫌がらなかった夏は、なぜかそのまま僕の家に住みついた。

 僕と僕のねこはこんないきさつを経て同居をはじめた。
 ちなみにその季節が真夏だったため、僕はとくに考えもなく、「夏」と呼び名をつけたのである。


 夏は、猫にしてはずいぶん甘えんぼうな性格であったけれども、いたって猫らしい気ままで自己中心的な性分もしっかりと備えていた。

 まず、朝である。

 明け方までパソコンと向かい合っていることの多い僕は、たいていいつも、隣近所からけたたましい目覚ましの音が聞こえだす頃に眠りについて、彼らが昼食を取りはじめる頃にもそもそと起きだす。

 しかし夏の体内時計によると、どうやら僕が深い眠りにつくその時間帯こそが飯時らしく、ふとんに寝転んだ僕を、文字どおり、たたき起こしてくるのだった。

 初めてそれをされたとき、僕はとても面食らった。心地好い眠りの中、いきなりぺしんと額をはたかれるのである。

 なんだと思って目を開けるとみゃあと聞こえて、逆三角形の顔がひょこっと覗きこんでくる。飯はまだか、飯をくれ、ちょうだいちょうだいと、そんな顔つきで見つめてくるものだから、僕はもう起き上がるしかない。

 何度か狸寝入りを決め込んだこともあるにはあるが、ぺしんぺしん、みゃあみゃあというのが延々続くだけで一向に諦める気配がない。こりゃかなわんと思った僕は、就寝時間をずらすことで解決策とした。

 続いて午後である。

 一日の大半を過ごす仕事部屋、つまり書斎、いや、そう呼んでいるだけで、実のところ敷きっぱなしのふとんと読みかけの本がとっ散らかった、畳敷きの手狭な寝室であるのだが、とにかくそこで僕がうんうん唸っていると、夏はいつも、知らないうちにいなくなっていた。

 僕のねこは、勝手気ままに外へと出かける。僕もまた、そのことで気を揉んだりはしなかった。

 換気のため、日中つねに開け放している居間の大きな窓から庭とも呼べないちいさな庭へ、そして背の低い塀をよじ登り、町へくり出すその後ろ姿を何度も見かけていたし、散歩に出た僕と例の路地でばったりはちあわせることもしばしばあった。

 そもそも野良である夏が家に閉じこもっているほうが不自然だ。家主に声もかけずに出かけていくその様子は、まったくもって、自由を愛する僕のねこらしい姿だと思うばかりである。

 さて、夕方である。

 そろそろ腹が減ったなと思うころ、夏はこれまた、知らないうちに帰宅している。音もなく気配もなく僕の書斎へ侵入して、起きて抜けたままにしてある僕のふとんの上に寝そべっている。

 言うまでもないが、外を出歩いたその足で、外でゴロゴロしてきたその体で、僕のふとんに乗っかっているのである。

 初めてそれを目にしたときは、かちんときたので怒ってやった。夏はぴょんと跳ねて逃げだしたけれど、翌日も翌々日も、僕のふとんを陣取った。結局、根負けしたのは僕である。今までめったに使用する機会のなかったウェットティッシュなるものが、僕の机に常備されるようになった。

 こうして日々のいくつかを書きつらねてみると夏の奔放さばかりが目立つのだが、先にも書いたとおり、夏はなかなかの甘えんぼうでもあった。

 僕が就寝時間をずらしたことで空腹を満たせるようになった夏は、僕の腹の上で眠るようになった。

 小柄で細身な僕のねこはたいした重さもなかったから好きなようにさせていた。けれども僕自身、どうしても眠りが浅い日というものがあって、そんなときは何度も寝返りを打たざるを得なくなる。

 すると夏もまた落ち着いて眠れないものだから、僕の上から渋々どき、そろりそろりと枕元までやってきて、尻というか腰というか、そのあたりを僕の顔に寄せ、あらためて眠りにつくのであった。

 僕としては、なにも下半身を押し付けなくても、と思ったりもしたのだが、夏はそのあたりに人肌があると安心するらしかった。夢うつつの中で撫でてやると、夏はかならず、ぐぐるるる、とのどを鳴らした。

 また、家にいるときの夏は決まって僕の目につくところか、夏から僕が見える位置のどちらかにいた。

 僕のことなど気にも留めていないようにそっぽを向いているくせに、僕がすこしでも身じろぐと、器用に耳を傾けて様子を窺おうとするのだからおもしろい。しかも、夏、と呼ぶとちゃんと振り向くのである。

 僕は時々、夏のそんな習性を利用していたずらを仕掛けてやることがあった。

 わざとらしく座り直して気を引いて、夏、と呼ぶ。夏が振り向く前にさっとパソコンに向き直り、知らん顔をする。少ししてからまた呼ぶ。夏が振り向く。知らん顔。そんなことを繰り返していると、しまいに怒った夏がみゃあと鳴く。僕はからからと笑って、陽気な気分で執筆作業に戻るのであった。

 僕と僕のねこは、こんなふうにして一緒に暮らした。
 四年という、長いようで短い歳月を、共に気ままに過ごしたのである。


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