僕のねこ、夏 #3 不思議な隣人…2…
飯塚の持参した酒は、非常にうまいものだった。焼き鳥もまた、うまかった。
僕が素直にそれを伝えると、飯塚は嬉々として、酒はどこどこに酒蔵を構える何々という芋焼酎で、焼き鳥はどこそこに店を構えるなんとかという老舗のものだと語った。どちらもなかなかに有名らしい。
じつはその後も何度か口にする機会はあったのだけれど、このとおり、僕はその頭文字すらも記憶していない。うまいものを食ってうまいとさえ思えれば、僕の人生においてなんら不便もないのである。
僕は久々の酒とうまいつまみに気分がよくなった。自然、飯塚という食えない隣人が僕の家にいることも、僕の目の前で海色のコップを傾けていることも、苦と思わなくなった。
飯塚は酒の肴に、二匹の飼い犬の話をした。
犬の名前はラッキーとクッキー。ラッキーは奥方がつけた名前で、それを聞いた飯塚がもう一匹をクッキーと名づけた。奥方はこの二匹をラァちゃんクゥちゃんと呼んでいる。
そんな名前の話から始まって、うりふたつな二匹の見分け方だとか性格の話だとか、やっかいな癖の話だとか、彼らが起こした珍事件に奥方が失神しかけた話だとかを饒舌に話した。
僕はかなり初めのほう、なんなら名前のあたりから変だと思いながら聞いていた。けれど、意外にも否定的な感情は出てこず、むしろじわりじわりとわきあがってきたのは、おかしみだった。僕は何度もくつくつと笑った。そのたびに飯塚も、がははと笑った。
酒が進んだ。
ずいぶん気の大きくなった僕は、勢いにまかせてあのみつばちの服について指摘した。
すると飯塚は、なぜかまた嬉しそうな顔をした。
「あれは洒落のつもりだったんだ。なのに、みんな世辞しか言ってくれなくてね」
「世辞?」
「可愛らしいとか、なんとか。犬がみつばちの格好をしているんだぞ。まず変だと思うのが普通じゃないかね」
「そう思います」
「そうだろう。それなのに、まあ可愛い、とか、あら可愛い、とか。その前に、それは変よと思ったとおりのことを言うのが礼儀じゃないかね」
「はあ。べつにそれが礼儀とは思いませんが」
「そうか。いや、だがね、洒落に世辞を返すのはナンセンスだよ、君。世辞を言われちゃあ、おれはどうもと答えるしかないじゃないか」
「洒落のつもりだと、そう言えばいいじゃないですか」
「それじゃあおもしろくない。洒落がだいなしだ」
「だいなしですか」
「ああ、だいなしだ」
「ナンセンス?」
「そう、ナンセンス。非常にナンセンスだ」
まじめくさった顔で腕を広げた飯塚に、僕はまたおかしみを覚えた。そして、そうか、と気がついた。飯塚の話に引き込まれるのは、この軽妙な語り口と打てば響く小気味のいい返答と、大げさでコミカルなしぐさにあるのだと。
飯塚に対する興味がぐんと増した。
すると同時に、飯塚についてなにも知らないことにも気がついた。
二匹の飼い犬、ラッキーとクッキーについてはとかく詳しくなったわけだが、彼本人に関する情報を、僕はいっさい持っていない。
仕事帰りに一杯ひっかけて、ほろ酔いの陽気な気分に押されるままに僕の家に立ち寄っただろうことは予想がついたけれども、たとえばその仕事がなんであるのか、飯塚という苗字の下にどんな名前がくっついているのか、どうしてわざわざ出勤前であろう早朝に犬の散歩に出かけているのか、そんな些細な疑問がとりとめもなく浮かんできて、頭の中に散らばった。
飯塚の口が酒でふさがったのを機に、まず散歩について聞いてみた。
すると飯塚は、急になにかを思いだしたように、それによって僕の問いかけなどすっかり忘れてしまったように、そういえば君、と、いきなり身を乗りだしてきた。驚いた僕は、すこしばかりのけぞった。
「おれは今朝、君のことを不思議だと言ったが、あれは褒めたんだ。なのに君はふてくされた顔をしたな」
「ええ、しました。当然です。変わり者と言われて喜ぶのは、自己顕示欲のかたまりだけです。僕は違う」
「いいや違う。違うよ、君。話をちゃんと聞きなさい」
飯塚は、むきになって言い返した僕を教師のごとくたしなめた。僕はむっとして押し黙った。
「変だと言ったんじゃあない、不思議だと言ったんだ」
「はあ、そうですか」
「わかるかね」
「わかりません」
今度は飯塚が黙った。
「よし。それなら君にいくつか質問をしてみよう。いいか。まずひとつめだ。幽霊の存在は、変かね」
構えていた僕は、突飛な質問に驚いた。すこし考えて、首を振った。
「変というのは、違う」
「ふたつめ。超能力は変か」
「それも違う」
「宇宙は変である」
「違います、宇宙は不思議だ」
「そうだろう。つまりそういうことだよ。不思議という言葉は、我々の好奇心を刺激する、興味の尽きない対象にこそ使われるべきものだ」
このとき僕は、なんとも表現しがたい顔をしたはずだ。僕の心が、いろんな感情で溢れかえったからである。
興味深いと言われた気恥ずかしさとその中に混じるほのかな嬉しさ、してやられたような悔しさと、僕には真似できない誘導上手な話術に対する畏敬の念。ほかになにがあったろうか、すっかり忘れてしまったのだが、とにかくいろいろが混ぜこぜになって、心の中がごっちゃりしたのである。
飯塚は、そんな僕の顔をじっと観察したあとに、にやりと笑った。
「ついでに、もうひとついいかね」
「なんですか」
「犬にみつばちの格好をさせるのは」
「それは変だ」
「ご名答」
飯塚は軽やかに手を打ち鳴らして、コップを高々と持ち上げた。
このときをもって、飯塚に抱いていた印象が「変な隣人」から「不思議な隣人」に変わった。夏はいつのまにか僕の隣でまるまって、眠たそうな瞬きを繰り返していた。
せっかくなので、もう少し飯塚のことを書いておこうと思う。
というのも彼は、僕のねこの話をする上で、決して無視することの出来ない存在であり、交友関係が希薄な僕に夏がもたらしてくれた唯一の友人でもあるからだ。
あの日、初めて晩酌をした日を境に、飯塚とはたびたび酒を共にするようになった。
飯塚の言葉を借りると、ばんとも、である。
晩酌を共にする友人の略だそうだが、もちろん、飯塚の洒落っ気が生み出した造語である。
ばんともとしての時間は、ほんの一杯をあおる程度で終わることもあれば、夜が更けてもなお続くこともあった。
飯塚は、いつも突然やってきた。まさしく気分次第で、事前に伺いを立てるでもなく、僕の都合などお構いなしに、いきなり玄関先に現れるのである。
そのかわり、酒もつまみもかならず飯塚が用意してくれた。飯塚の舌は僕なんかよりもよほど肥えているらしく、どれもこれもうまかった。たまに奥方お手製のつまみを持ってくることもあった。イタリアンだかフレンチだか知らないが、女の名前のような名称の、色彩ゆたかで酸味の強い小洒落た感じのつまみだった。もちろんそれもうまかった。
対する僕は、毎度、コップを出すついでに常備してあるせんべいをテーブルに乗せておくのだが、飯塚は一度もそれを食おうとはしなかった。
以前、なぜ食わないのかと尋ねたことがある。せんべいは嫌いだと言われた。
いわく、こうである。
「せんべいってやつは、噛むたびに口の中の水分をごっそり奪っていくだろう。そうするとおれは、このグラスに注がれた酒を飲みほしたくてたまらなくなる。なんとも不愉快じゃないか。おれたちはつまみを食うついでに酒を飲むんじゃない。酒を飲むついでにつまみを食っているんだから」
それっきり、僕はせんべいを出すのをやめた。
こんなふうに、飯塚は一の問いかけに十の言葉を返してくる男であったが、半面、よく質問を投げかけてくる男でもあった。とくに僕のねこについて聞きたがった。
飯塚は犬だけではなく猫に関しても詳しいようで、僕からいろいろ聞きだしては、あれはこうだそれはこうだとうんちくを垂れてきた。僕は最初のうち、それを大変うとましく思っていた。
猫だって脳みそを持ち、そこで考え行動できる生きものだ。
人間と一緒で十人十色。さまざまな場所で、さまざまな毛並みの猫が、さまざまに生きているのだ。
僕のねこも、しかり。猫だけれど、夏である。
それなのに、腰を撫でると安心するらしいとか、そのしぐさは怒っているのだとか喜んでいるのだとか、僕のねこの旧知の友であるかのように、ああだのこうだの言われるのはとにかく癪だった。
無知による恥と劣等感もあったのだと今ならば思う。我ながら子供じみた感情であるが、心がそう動いてしまったのだから仕方ない。
それもあって僕はしばらく飯塚のうんちくを聞き流していたのだけれど、夏を眺めていると、なるほど確かにと思うことも多々あって、そのうち、僕は自分からあれはどうなのかこれはどうなのかと尋ねるようになっていった。
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