トガノイバラ #3 ―1 血の目醒め…2…
見るたび思うが――医者に見えない。
もちろん悪い意味で、だ。
歳は四十そこそこで、白い筋のちらほら混じった剛い髪を適当に後ろに撫でつけている。秀でた額に濃い眉、太い鼻梁、骨格の際立つ彫の深い顔立ちは精悍だともいえるけれど、いかんせん、だらしない。
まばらにはえた不精ひげや、着崩したワイシャツ、くたびれまくりのスラックス――さすがに白衣はちゃんと白いが、それでもやっぱり、乾燥機から取り出してそのまま羽織りましたと言わんばかりのシワが目立つ。
さらには言葉遣いの荒さ、口の悪さ、目元ににじむ気性の激しさが伊明の思う『医者』のイメージから、限りなく遠ざけてしまっている。
白衣がなければどこの裏稼業の方ですかと訊きたくなるような男だった。
――変なのだ。この人も。
伊明は口をひらくことなく――挨拶さえ事務的な会釈のみで済ませてしまって――患者用のスツールに腰を下ろした。いつものように問診が始まる。遠野はもちろん伊明も慣れたもので、診察は滞りなく進んでいく。
月に一度の、定期健診。
とくに病弱というわけでもないのに、伊明は生まれてこのかた十七年間、ずうっと続けさせられている。妹の琉里もだ。
変わり者の父の意向である。
頻度の不自然さには伊明もとっくに気がついていたし、面倒だから行きたくないと直訴したのも一度や二度のことではない。そのたびに「なにかあってからじゃ遅い」と父に一蹴され、ならばと二人でサボってみると、父のみならず遠野まで目をツリあげて激怒した。
琉里は怯え、伊明は引いた。
そこまで怒る理由がわからない。健診の意味がわからないから。
訊いても訊いても「念のため」「なにかあってからじゃ云々」としか答えてくれないのだ。烈火のごとく怒るのならちゃんと理由を説明しろと思うのだが、結局、いまだに解は得られぬままである。
無駄に怒られるのも癪に障るので仕方なく通ってはいるものの、結果はいつだって異常なし。
『なにか』なんて永遠に無いように思われる。時間と金の無駄である。
ここ一か月の体調やなんやを訊かれ、体温を測り、目を覗かれたり口を覗かれたり聴診器を胸にあてられたり――形ばかりの(と伊明が感じる)遠野の診察は、いつもきっかり十五分で終わる。
そのタイミングを見計らって柳瀬が顔を覗かせる。遠野が入れと指で示す。いそいそと――柳瀬が、入ってくる。
これもいつも通りの流れであり、伊明もまた、いつもここで欝々とした息を吐く。
「相変わらず注射は怖いか」
遠野がにやにやしている。むかッ腹の立つ顔である。
「嫌いなんですよ。怖いんじゃなくて、嫌い。注射じゃなくて、採血が嫌い」
「ほう」
にやにやしている。殴りつけてやりたくなる。
伊明は遠野を睨んだまま、柳瀬に向けて乱暴に腕を差しだした。とたんにウフフフフと不気味な笑いが降ってくる。
「若い男の子の血っていいわよねえ、みずみずしくって」
うっとりする柳瀬を、顔を背けて黙殺する。
いつものこととはいえ、変態的なコメントは聞いていて気持ちのよいものではない。
「院長なんてヘビースモーカーだし大酒呑みだし体にいいもの嫌いだしで、もうドロッドロなのよ、血が。あれは下水ね、っていうかヘド――」
「柳瀬、減給」
カルテにペンを走らせながら遠野が言うと、
「じゃあ五時に上がりますね」
すかさず柳瀬が切り返す。わたし給料分しか働きませんのおほほ、と得意げに続けるこの人は、本当にいったい何歳なのか。
――なんて、心のなかで思っていても、伊明は会話に混ざろうとはしない。
濡れた脱脂綿が腕を撫でる。アルコールの塗布された部分がすうと冷えていく感覚に、勝手に神経が集中していく。
眉間のあたりが、いやにこわばる。
一心不乱に床を見つめた。少しでも意識を逸らそうと、必死に。
リノリウムに浮かぶ見慣れた模様。秋風にちぎられた薄雲みたいな――。
「伊明」
不意に、遠野の太い指が視界に入って来た。ぱちぱちと鳴らされる。伊明は反射的に顔をあげた。
「そういやな、このあと父ちゃん来るってよ」
「……はあ、そうですか」
気のない返事に、遠野がぐっと眉をひらいた。
「はあそうですかってお前、ほかにもうちょいなんかあるだろ」
「なんかってなんですか」
「いや、なんですかって訊かれると困るんだが」
「遠野先生に用事があるんでしょ? 俺、べつに関係ねーし」
遠野は伊明をまじまじ眺めながら、ペンの尻でこめかみを掻いた。
「お前は見事に反抗期をこじらせたなあ」
「べつに反抗期じゃないですよ、心底どうでもいいだけで。っていうか、普通じゃないですか。高二で親にべったりとか、そっちのほうがありえないし、……」
言い終わらないうちに、針の感触がめりこんできた。伊明は思わず息を詰め、口をつぐむ。
――ああ、嫌だ、この感覚。
これがあるから嫌なのだ、採血は。
ぷつ、と皮膚を突き破ってくる針の痛み。体の一部が吸い上げられていくような感覚。
ぞわぞわと背中があわだつのになぜかそれは不快ではなく、むしろ妙な高揚感を伊明にもたらす。全神経が浮き立つような――ふわと甘く、心地好い熱が、裡から支配しに掛かってくるのだ。
たぶん、誰に話しても伝わらない。柳瀬や遠野にさえも。
なんとも形容しがたい奇怪な感覚なのだ。
年々強くなってきているような――気も、する。
伊明はもう片方の手で拳を作り、額にぶつけた。ごつ、と骨同士のぶつかる音が頭の中に鈍く響く。ごつ。ごつ。
「はい、おしまい」
針が抜かれ、絆創膏のような止血テープがあてがわれる。
腕は凍りついたようにこわばりきって小刻みに震えていた。テープをおさえる親指が勝手に針の痕を探す。裡側に残る奇怪な感覚を散らすようにぐりぐりと動く。
「揉むなっつってんだろうが――」
リノリウムのちぎれた雲。
子供のころは、この雲からいろんなもの連想していた。今は、なにも――浮かばない。
「――おい。おい、伊明。こっち見ろ。息吸え、深呼吸」
目の前で指が鳴らされる。
伊明の瞳がようやく動いた。錆びた機械みたいにぎこちなく。思いだしたように息を吸う。そして吐く。言われるままに、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
腕が、弛緩する。
柳瀬はいつのまにか退室していた。
どこから流れてきているのか――閉め切られている室内に、さっきまでなかったユリの薫りが漂っている。
甘い匂い。香水だろうか。
幼いころの記憶に触れる。
「……だんだん激しくなってきてんなあ、お前の注射嫌い」
カルテにペンを走らせながら、呟くように遠野が言った。ちらと動いた視線が、伊明の手元に注がれる。
指の震えは止まっていない。
機械的に浅い呼吸を繰り返しながら、伊明は青ざめた顔で朦朧と、床の模様を見つめていた。
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