トガノイバラ #11 -1 血の目醒め…10…
――昔からそうだった。
自分勝手で傲慢で、理不尽で、父親らしい懐の深さなんて微塵もない、クソの役にも立たないようなクソ親父な父親だった。
行き場のない苛立ちを抱えた伊明は、結局、一睡もできずに朝を迎えた。
時刻は午前五時である。
ベッドから身を起こして自室を出、居間に降りていくと、早朝の白い陽光が奥の硝子戸からやんわりと室内に入りこんでいた。
浮遊する埃が光の粒に見えるよう。
すべてが昨日のまま残っている。
作るだけ作った手つかずのみそ汁、レンジに放りこんだままのトンカツ、アイロン台には中途半端にアイロン掛けされたワイシャツが忘れ去られたみたいに放置されている。
その横には、きちりとたたまれた衣服が少しと、取りこまれた状態のままの服がそれぞれ大小の山を作っている。
クソ親父は、夜中の二時ごろに一度だけ帰ってきた。が、またすぐに出て行った。廊下を行き来する足音や物音から察するに、着替えと風呂を済ませるために帰ってきたらしかった。
――それと。
伊明はキッチンのゴミ箱を覗いた。
昨日まで満杯に近い状態にあった中身はからっぽになり、新しい袋がきちんとはまっている。
ゴミ出しは唯一、父担当の家事なのだ。
律儀なのはいいけれど、ポイントがずれていないだろうか。ゴミなんかどうでもいい。いや、よくはないが、ゴミなんかより息子と向き合えと伊明は思ってしまう。
キッチンまわりをひと通り片づけてから、リビングのソファに腰を下ろした。
視界のすみに入ってくる山積みの衣服にはあえて知らん顔をし、たっぷり二時間ぼうっとしてからようやくもそもそ準備をして、学校へ向かった。
休んでしまおうかとも思ったけれど、あの家に一人でいるのもキツかった。
授業中はほとんど寝ていた。昼休みは保健室に行き、具合が悪いと言って休ませてもらった。そのまま五限目をさぼって六限目が始まる直前に教室に戻った。居眠りはせずに済んだが、授業内容はほとんど耳に入ってこなかった。
「伊明、だいじょーぶか?」
HRが終わるなり、クラスメイトの流星――本来の読みは『すたあ』だが本人が『りゅうせい』と読めと言う。互いにヘンな名前だな変わってるなと言いあってから妙な友情が芽生えた――が、スクールバッグを肩に引っかけ、伊明の顔を覗きこんできた。
「今日ヤバかったなぁお前。あ、目の下すげークマ」
口を半開きにし、無遠慮に、伊明の下瞼にむけて人差し指を突きつけてくる。視界に突然とびこんできた指先。伊明は反射的にその手を払う。
「お」
「……だから。指さすなっつの」
「いめーちゃんキビン~」
機敏、を慣れない発音で言って流星は笑う。犬みたいな顔がくしゃっとくずれた。
「さっすが武闘家。アレだろ、ホァチョーアタタタターってやつだろ?」
流星はツルのように両手を掲げて片足立ちになり、拳を何度か突き出した。だらしなく着くずした制服が、余計に動きをもたもた見せる。
武闘家でもないしホァチョーでもアタタタターでもないし、その動きのイメージもだいぶ間違っている。バカだろお前、と軽口をたたきながら伊明もバッグを手に席を立った。
帰宅部同士、肩を並べて廊下を歩いていると、
「あ、琉里の」
すれ違いざまに声をあげて振り返った女子がいた。
栗色の髪にふわふわのニュアンスパーマをかけた、ずいぶん顔立ちの整った子である。ゆったりとしたニットカーディガン。スカートの丈がやたら短くて太腿がむきだしになっている。
流星が隣で鼻息を荒くした。
琉里とよく一緒にいる子だ。クラスメイトで同じ演劇部員の子。名前はたしか――。
「……えーと」
出てこない。
伊明と琉里は同じ学校にこそ通っているが、交友関係はまったく別だった。クラスが離れているせいもあるし、部活組と帰宅組という違いもある。校内で顔を合わせても軽く挨拶を交わすだけだ。
だからこの栗色女子も、顔に見覚えはあっても名前がわからない。
けれど彼女はそんな伊明に構わずに、
「ねえ、琉里どうしたの?」
臆することなく話しかけてくる。
「……どう、って」
「体調不良でお休みだって、先生が言ってたから。風邪?」
「風邪――っていうか」
少なくとも風邪ではない。が、どう言えばいいのかわからない。
言いよどむ伊明に、栗色女子が首をかしげた。それから言いにくそうに眉をさげて、
「風邪じゃないならいいんだけど……ほら、本番――文化祭が近いでしょ。いま喉やられちゃうとまずいし、それに……」
歯切れ悪く、後ろを振り返る。連れがいたらしい。
こちらは彼女とは対照的な黒髪ストレートの眼鏡女子だ。見るからに真面目そうな、けれど気の強そうな、ツリ目がちの子である。
彼女の視線に押されるようにして、栗色女子が続けた。
「この時期に休むのも、ちょっと……まずいっていうか、タブーっていうか。ほら、琉里、役ついてるし。メインだから出番も多いし。……先輩たちもね、その、ピリピリしてるし」
「連帯責任」
眼鏡女子がそっぽを向いたままぽつりと言った。栗色女子が頷く。
「そう。そうなの。うち、文化部だけどちょっと体育会系入ってるっていうか……」
「体調管理がなってないって、私たちまで怒られる」
「そうなの。ね、明日は出てこられるのかな」
交互に喋るのを眉をひそめて聞いていた伊明は、女子二人を見下ろして、
「俺に訊かれてもわかんないから。本人に直接訊けよ」
「だって、休んで――」
「携帯。持ってんだろ」
語調の強さに、栗色女子はひるんだらしかった。
代わりに、眼鏡女子が答える。
「返事こないのよ。既読もつかない」
――まあ、そうだろう。
言っておいてなんだけれど、じつを言えば伊明も昨夜から何度か連絡を入れているがいまだに反応は得られていない。
「……とにかく」
眼鏡女子は瞼を伏せて、溜息をついた。
「琉里に連絡するよう伝えてもらえない? それと――」
瞳が伊明に戻ってくる。
「お大事に、って。……行こ、繭香。遅れる」
「あ、待って、ようちゃん」
さっさと歩きだした眼鏡女子を、栗色女子がぱたぱたと追いかけていく。
それを見送るでもなく、伊明は無言で踵を返した。
「お前さぁ」
隣でおとなしくしていた流星が、頭の後ろで手を組みながら呆れたように言った。
「女子相手にアレはないだろ。もちょっと愛想よくできねぇの?」
「なにが」
「なにがじゃねぇよ、怖いんだよお前のブチョーヅラ」
「仏頂面な」
「そうソレ」
懲りもせず、ぴ、と人差し指を突きつけてくる。やんわり押しやると、流星はへへッと笑って「あの繭香って子、可愛かったなぁ?」と鼻の下をのばし始める。
伊明は適当に相槌を打ちながら、制服のスラックスのポケットから携帯電話を引っぱりだした。
そのときに指先を掠めたのは、一片のメモ用紙。
琉里に送ったメッセージは未読のまま。
そして、父からのメールが一通。
――琉里の迎え頼む。
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