トガノイバラ #2 ―1 血の目醒め…1…
幼いころから、変なことがよくあった。
普通に歩いているだけなのに、知らない人がばけものでも見たような顔をして逃げていく。青ざめた顔で話しかけてくる人もある。そのまま連れていかれそうになることもままあった。
恐そうなお兄さんだったり、優しそうなお姉さんだったり、明らかに日本人なのに外国人のような目の色をした人も、いた。
彼らは一様にユリのような甘い香水をつけていて、それがとにかく不快だったのを憶えている。
危ないときには、
「みきざきいめい」
――御木崎伊明。
名乗れば簡単に追い払うことができた。
教えてくれたのは父である。理由は話してくれなかった。
高校二年生にもなると『変なこと』も日常になり、誘拐されかけることなどもさすがになくなり、他人が気軽に話しかけられないような不愛想オーラの纏い方も覚えたおかげで、名を印籠のごとくかざす機会もなくなった。――ものの、クラスメイトから名前がめずらしいだの変だのとつッつかれることが多くなった。
字面がゴツいせいなのか、
「寺なの?」
「神社なの?」
「由緒正しい旧家なの?」
みたいなことはよく訊かれる。
が、彼――伊明の家はごく一般的な家庭である。
変わっていることといえば、母親が蒸発して父子家庭であること、まったく似ていない二卵性の双子の妹がいること、父親が私立探偵とかいうコミックみたいな職についていることくらいだ。
いや、ほかにも色々ある。ちょっと普通でないことが。
けれどそれは家云々のせいではなく――
父が変人だからだと、伊明は思う。
* * *
「伊明くん、先に入ってもらってもいいかしら」
女性看護師の柳瀬に呼ばれ、伊明は待合室の椅子から立ち上がった。
とおの小児科・内科クリニック。
伊明が物心つく前から家族ぐるみで世話になっている、ここ矢形町の『まちの小さな診療所』だ。
本当にちんまりと診療している。
さほど広くはない敷地に、ちょんと置かれたような平屋建て。併設された駐車場は、車三台がゆったり停められる広さがあるが、うち二台は常に、看護師と医院長の愛車が占拠している。患者用スペースはひとつしかない。
それでも不便はないようである。
伊明はここで、他の患者と遭遇したことが一度もない。予約がいつも閉院ギリギリの午後七時に取られているから――というのもあるけれど、この医院自体が、完全予約制かつ完全紹介制という珍妙なかたちをとっているからでもあった。
診察室に入ろうと受付カウンターの横を抜けたところで、「ねえ」と柳瀬に呼び止められた。
「琉里ちゃん、間に合いそう?」
「まあ……大丈夫なんじゃないですか」
伊明はにこりともしない。返事も素っ気ないものである。
けれど柳瀬は気分を害した様子もなく、
「連絡はあったの?」
「ありましたよ。部活長引いたって」
「そう。大変ねえ」
綺麗に整えられた柳瀬の眉尻が、伊明の妹――琉里に同情を寄せるように下がった。
どこからどう見ても二十代にしか見えない彼女は、少なくとも勤続十年は超えているはずのベテランだ。伊明が幼いころからここにいた。
なのに加齢の影は一向見えず、頬の横で緩くまとめられた栗色の髪のつややかさも、目元や口周りの肌のハリも、モデルばりの細身の体形にぴんと伸びた姿勢さえもいっさい崩れる気配がない。
美への執着とたゆまぬ努力のたまものよ、と本人は言っている。
伊明は、美容整形のたまものだと解釈している。
「ゆっくりでいいわよって言ってあげて。少しくらい過ぎても、うちは構わないから」
「いや、俺が終わるまでには来ますよ。学校からここまで三十分くらいだし」
「でもほら、部活で疲れてるのに急がせちゃっても、ねえ。可哀想じゃないの。走ってくるわよきっと、琉里ちゃんのことだから。せめて伊明くんが先に入るって――」
「送ってます」
うんざりして、伊明は言った。
「連絡がきた時点で、そう送ってます。いつもそうしてるじゃないですか」
「あらまあ、さすが伊明くん。通い詰めてるだけあ――」
「来たくて来てるわけじゃないんで」
琉里が部活で遅れるのは、そうめずらしいことじゃない。今までにも何度もあった。そのたびに似たような――というかほとんど同じ会話を、伊明は柳瀬と繰り返している。
彼女はいつもこうなのだ。
伊明に、琉里に、やたら構いたがる。
柳瀬は「まあ」と目を大きくした。
「まーたそんなひねくれた言い方する。小さいころはあんなに素直で可愛かったのに……ショックだわ、お姉さん」
「お姉さんって歳じゃないでしょ、柳瀬さん」
幾つなのか、知らないけれど。
おそらく女性に対して言ってはならぬ言葉であろうが、あいにく柳瀬も変人である。怒ることなくうふふと笑って、
「歳と美貌が直結するとは限らないのよ。――ほら、入って入って。院長が首を長ぁくして待ってるわよ」
自分で引き留めておいて――とは思ったけれど、結局なにを言っても無駄なのだ。伊明は不満げに柳瀬を見返してから、診察室のドアを開けた。
――そのやり取りが聞こえていたのだろう。
「お前はほんッと、柳瀬に気に入られてんなあ伊明」
苦笑まじりのだみ声。医院唯一の医師であり院長でもある遠野が、年季の入ったキャスターチェアをぎしぎしいわせながら、ふんぞり返ったままの姿勢で「よう」と軽く手をあげた。
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