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トガノイバラ #10 -1 血の目醒め…9…


 どのくらいそうしていたのか――。

 携帯電話を手に持ったまま、メモ用紙に並んだ数字を見つめていた伊明いめいは、玄関の物音にはッとした。

 父が帰ってきたらしい。

 とっさにメモをちぎって手の中に握りこむ。父の携帯はダイニングテーブルに放りだした。

 廊下へ出ると、明かりのない玄関には靴を脱いでいる父の背中だけがあった。

「……琉里は?」

「今日一日、遠野が見ることになった」

「それ、入院ってこと?」

「心配するな。念のためだ」

 淡々と答え、廊下に上がり、伊明を素通りしてリビングに入っていく。室内――片づける気になれずキッチンもアイロン台もそのままになっている――を見回して、リビングの奥、ガレージに面する掃き出し窓をがらりと開けた。

 居間の戸口に立ったまま、伊明は父の背中を、その横顔を睨みつけていた。

 あいかわらず、訊かれたことに答えるだけ。
 なんの説明もしてくれない。なにも話そうとしてくれない。
 表情からも、動きからも、なんの感情も読みとれない。

 信じられないほどいつも通りな、父の姿。

 夜の秋風がしとりと流れこんでくる。こごっていた家の空気を循環させる。

「……なんだったの?」

 ぶっきらぼうな伊明の問いに、父は怪訝そうに振り返る。

「琉里が倒れた原因。なんだったの?」

「ああ。……まあ、発作みたいなものだ」

「発作?」

 父は硝子戸から離れて、また伊明の前を素通りする。一瞥もくれず、ダイニングテーブルに投げ出されていた自身の携帯電話を手に取った。

「発作ってなに?」

 伊明が訊く。父は携帯電話をいじくりながら、それに答える。

「琉里には、生まれつき持病のようなものがある。ここしばらくは平気だったが――」

 ふと父が眉をひそめた。

「お前、俺の携帯使ったか?」

 伊明は逃げるように視線を外した。握っていたメモをポケットに突っ込む。

「……遠野先生に、電話」

「そのあとだ」

「ああ、……同じ番号からすげー掛かってきてたから」

「出たのか」

 父の瞳が険しくなったのが、わかった。刺々しい視線が容赦なく肌に刺さる。

「緊急だと思うだろ、あんな――何回も何回も掛かってきたら」

 自然と語気が強くなる。目を合わせずにキッチンに入り、まな板の上でしなびているキャベツをゴミ箱に流しいれた。包丁も、まな板も、シンクに突っこむ。

「名乗ったか」

「は? なに?」

「向こうは、お前に名乗ったのか」

 張りつめた父の声。

 わかっているのだ、相手が誰だか。
 着信履歴に残っている番号は未登録のはずなのに。

 燻っていた苛立ちが、ほのかな熱を孕みだす。伊明はそれを抑えこむように、シンクのふちに両手をついてゆっくりと息を吐きだした。

「……名乗ってねーよ。名乗ってねーけど、親戚だって言ってた。あと伝言。オトウサマの葬式は済ませた、話し合いたいことがあるから電話くれってさ。……その番号に」

 水道のレバーを勢いよく上げる。最後に添えた呟きが水の音に掻き消される。

 父は、そうか、と無感情に言っただけだった。

 言い訳もない。弁明もない。
 説明も、やっぱりない。

「絶縁状態じゃなかったっけ?」

「他になにか言ってたか?」

 嫌味たっぷりに放った問いは、無視された。

「なにも」

 苛立ちを抑えるのはもう無理だった。乱暴な手つきで適当に洗ったまな板と包丁を水切りカゴに投げ入れ、キッチンを出る。

 父は、ダイニングで巌のように固まっていた。大きく引いた椅子に浅く腰掛け、足を組み、テーブルに片腕を乗せて――指先だけが擦り合うように動いている。考えこんでいるときの父の癖だ。

 伊明はカウンターに腰をもたせかけ、その横顔を睨んだ。説明を待ったところで無駄なのはわかっている。

「なあ。琉里の持病ってなんなの? 昔から体弱かったじゃん、それとは違うの?」

「……その前に」

 父の瞳が伊明に向く。

「あのとき何があったのか、詳しく話せ」

 人差し指がコツコツとテーブルを叩く。座れという合図である。
 伊明は動かなかった。

「あのときってなに? 琉里が倒れたときのこと言ってんの?」

「そうだ」

「さっき言っただろ。俺が――」

 コツ、コツ。
 再度、今度は強めにテーブルが叩かれる。

 伊明は舌打ちしたくなるのを堪えてカウンターから腰を離した。乱暴に椅子を引き、父の斜向かいに座る。

「俺が、包丁で指切って。琉里が手当てしようとして、……そしたら、いきなり倒れて」

「伊明。詳しく・・・話せ」

「……」

 この暴力的な父の目つきが、伊明はとにかく嫌いだった。

 こちらの意思などお構いなしに、凶暴な圧でもって従わせようとする傲慢な瞳。そこに温みは欠片もなく、底冷えするようなつめたさだけが、薄氷を張ったみたいに――常に冷然とひかっている。

 はたしてこれが、父親が息子に向ける目なのか。

 伊明はテーブルに視線を落とした。

 話したところで理解してもらえるとは思えない。自分でさえ夢か現か知れないようなあの出来事を、この男が受け入れようはずもない。

「…………」

 伊明が沈黙を守っていると、

「話しづらいのはわかってる」

 父が言った。

「だいぶ、不自然なことが起きたろう」

 伊明は驚いて目を上げた。が、互いの視線がかち合うことはなかった。

 父は瞼を伏せている。眉間に深くしわを寄せ、目頭を押さえていた。めったに崩れない父の、苦々しい顔――。

「……琉里から、聞いたの?」

「いや。琉里はまだ話せる状態にない」

「じゃあ、なんで」

 父は短く嘆息し、目元から手を離した。伊明へと瞳を戻す。冷徹なひかりは変わらずこびりついていたが、それでも、圧力を掛ける目つきではなくなっていた。

「あの状況を見れば大体の予想はつく。俺が知りたいのは、どういう経緯でそうなったのか、琉里がどんな行動を取ったのか、――お前がなにを見てなにを感じたのか、だ」

 無意識、なのか。
 言いながら父は左腕をおさえていた。いくつもの傷痕のある、左前腕。

「話はそのあとだ。必要なら、答えられる範囲でお前の訊きたいことにも答えてやる」

「……ちょっと、待って。父さんは……説明できるっていうのか、あのときの――あれを」

「できる」

 よどみなく、父は言い切った。
 伊明はひどく戸惑ったが、逡巡したのち、ぽつぽつと話し始めた。父の要望通りにできるだけ詳しく。

 指を切った。手当てすると言った琉里に、傷を見せた。とたんに甘い匂いが広がって、頭の芯がぼうっとして、傷口を中心に血が滾るように熱くなって。琉里が傷に口をつけると、余計にそれらがひどくなって――。

「琉里は自分から血を舐めたのか」

 父の問いに、伊明はためらいがちに頷いた。

「あいつも……変になってた、と思う。俺も普通じゃなかったけど、琉里も普通じゃなかった。二人して、別々の幻覚のなかをさまよってるみたいだった」

「そうか」

「……だからだと、思うんだけど」

 そこでちょっと口ごもった。父を窺う。
 話せ、と目で促され、伊明はうつむきがちに口をひらく。

「幻覚の延長、っていうか……琉里の目の色が変わったように見えたんだ。灰色っぽい青に。顔も死ぬんじゃないかって思うくらい血の気が失せてたし、指とか、すげー冷たくて」

 人差し指の傷をいじくっていると、ぴりっとした痛みとともにふたたび血が滲みだす。それを眺めながら、伊明は続ける。

「そしたら急に琉里が倒れたんだ。俺もそれで正気に戻ったっていうか、我に返ったっていうか……でも正直パニックで、ほんと、もうワケわかんなくなってた。あいつの体、それまで冷たかったのが嘘みたいにめちゃくちゃ熱くなってたし、すげー苦しそうにしてたし」

 父はなにも言わなかった。伊明が顔を上げる。

「なあ、あれって――」

 父がおもむろに立ち上がった。伊明は思わず口をつぐむ。

「……なんだよ」

「少し出てくる」

「はあ?」

 すこしでてくる。出掛けるという意味か。

 ――このタイミングで?

 父は構わず、携帯電話を手に取った。鍵や財布や――座ったときにでも出したのだろう、卓上に散らばっているそれらをスラックスのポケットにねじこんでいく。

「ちょっと待てよ。まだ話終わってねーだろ」

「それだけ聞ければ十分だ」

「そうじゃねーだろ、琉里のことは? なにが起きたか説明するって言ってたろ」

「『必要なら』。今はまだいい」

 伊明は完全に言葉を失った。
 は、と訊き返す声すら出せず、呆然と父を見あげる。

 父はそんな伊明を一顧だにせず、さっさと居間から出て行ってしまった。慌ててその背中を追いかける。

「ふざけんなよ、なんだよ『今はまだいい』って。なにがいいんだよ!」

「いま話してもお前が混乱するだけだ」

「もうとっくに混乱してるって」

「だから、今じゃないほうがいいと言ってるんだ」

「そうじゃなくてッ……」

 説明がないからだ、思わせぶりなことを言って逃げるからだと――玄関に立ったその背中に、怒鳴りつけてやりたかった。

 でも、できなかった。
 振り返った父の瞳がツと動いた。暴力的な、冷たい瞳が。伊明に向けて。

「いずれ話す」

 これ以上は無用だと、その瞳が言っている。

 吐きだせなかった言葉が喉の奥で停滞する。息が詰まる。口のなかで、奥歯がぎりと小さく軋んだ。

 父はふいと視線を外してドアノブに手を掛け、

「お前も疲れたはずだ。もう休め。明日も学校なんだろう」

 とってつけたような『親』の台詞を残して出て行った。外から施錠する音が、暗い玄関に重たく響く。

 ――ふざけんな。

 伊明は激情に任せて壁に拳を叩きつけた。衝撃も痛みもすべて自分に返ってくる。じんじんと痛む片手に手を添えて、

「……クソ親父」

 呻くように、呟いた。



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*前回のお話はこちらから📱📱


*1話めはこちらから🦇🦇


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