トガノイバラ#83 -4 悲哀の飛沫…24…
限界だった。琉里は張間に向かって駆けだした。
黙って見ているなんて、どうしてもできなかった。
それは――それだけは、琉里のなかのなにかが許さなかった。
地面を蹴り、跳躍する。
すばしっこさとこのバネこそが「たいしたものだ」と父を言わしめ、伊明に舌を巻かせることのできる、女性であり小柄な彼女の体術における長所だった。
張間の肩を横から蹴りこむつもりだった。が、予期していたかのように太い腕で防御され、そのままぐいと押し返される。
――逆らうな。利用しろ。
父の教えがよみがえる。口酸っぱく言われていた。琉里は押し返してくる力を借り、空中で身を反転させた。着地するなり軸足を変え、今度は背中の一点をつま先で狙う。
――肺の、後ろ。
みしりとした手応えはあった。でも、手応えだけだった。
「っ……!」
――なんて頑丈。大木みたい。
張間の体勢は少しもくずれなかった。
琉里はすぐさま飛びのき、間合いを取る。
張間は伊明の足を離した。琉里へ向き直る。
まったくの無表情であるのに、心理的な作用なのか、口の端にほんの微かに笑みを刷いているように見える。
伊明が慌てて身を起こした。
「バカお前ッ……」
「バカだもん!」
わかっている。張間の思うつぼであることも、伊明がこの状況を何よりも避けたがっていたことも――。
でも。
「バカでいいよ」
小さいころはいじめられて、何もできなくて、さんざん伊明に助けられた。そのせいでずいぶん無茶もさせた。
あのころとは違うのに、あのころと同じなんて――そう、死んでも嫌だ。
「下がれ琉里! 俺がっ――」
「伊明はずるい!」
「……は……?」
「ずるいよ。私のこと思うふりして、自分のことばっかりじゃん! ……同じなんだよ。私だってつらいんだから。伊明が――お兄ちゃんが傷つくの黙ってみてるの――つらくてできないの、同じなんだから。ちょっとくらい無茶させてよ。一緒にがんばらせてよ」
「……でも、お前は……」
しかし兄妹の会話は、それ以上続けられなかった。
張間が、仕掛けてきた。
その動きは伊明を相手にしているときとはまるで違っていた。琉里に反撃の暇を与えぬ猛攻。一撃一撃が、琉里の意識を奪うため、動きを封じるために繰り出されているのが、琉里にもわかった。殺気も格段に増していて、物理的にも精神的にもダメージを与えようとしてくる。防戦一方にならざるを得ず、琉里は、徐々に伊明から離されていった。
一方、伊明は伊明で、琉里に手を貸したいのに黒服たちに阻まれていた。待ってましたと言わんばかりに、二人の黒服にとらわれる。
普段なら簡単に蹴散らせるのに、それができない。
ここに来るまでにいろいろありすぎたのだ。血も流しすぎたし、直前の張間との一騎打ちも大きかった。伊明の体はすでに限界を超えている。
それでも――。
「琉里! ……くそ、邪魔だ、どけよ!」
抑えこまれた腕を振るい、身をよじり、抵抗する。
その姿が琉里にも見える。彼女のなかに微かに迷いが生じた。
やはり大人しくしているべきだったか――でも――と、その逡巡が、ほんの一瞬、動きを鈍らせた。
張間は、それを見逃さなかった。頑健な拳がみぞおちに迫る。はっとして、琉里はとっさに両腕で腹部をかばい、受け止めた。まともに受けてしまった。
「……ッ……!」
手首に痺れるような痛みが走った。一撃が重い。父や伊明のそれとは比べものにならないくらいに。
琉里の体がわずかに浮く。弾かれたみたいに後方に流れる。
気づいたときには、顔のすぐ真横に張間の太い足首が迫っていた。腕で防ごうとしたけれど――間に合わない。
「だめえ――――!」
突然、庭中の空気をつんざくような叫びが響き渡った。
張間の足がぴたと止まる。覚悟していた琉里の頬には風圧の名残だけが当たった。
母屋から小さな影がとびだしてきた。
桜色の袂が、蝶の羽根みたいに宙に踊り、張間の腰のあたりにとまる。
ひしとしがみついたのは、由芽伊だった。
石膏像のような張間の顔に明らかな狼狽が浮かんだ。伊明が突進してもびくともしなかった強靭な体が、桜色の小さな体に押されて横に流れた。琉里の顔の真横にあった太い足が、惑いながら引っ込められる。
「由芽伊、様」
「だめ、はりま、だめ」
驚いたのは琉里も同じだった。ぽかんとしたまま、由芽伊ちゃん、と呟くと、きッと張間に睨まれた。気安く呼ぶなと言わんばかりに。
「……由芽伊様、手をお離しください」
「いやっ」
「由芽伊様」
「いやっ!」
ぶんぶんと首を振って梃子でも動かないといった様子。
張間は所在なげに手を浮かせたまま、宥めるように言った。
「いったいどうされたのですか。だめとは――」
「ルリは、ゆめの姉さまなの」
「……は……?」
張間は一瞬、きょとんとした。
「……なにを、仰るのです。その女はギルワーですよ」
「でもいいギルワーだもん。それに伊明さまの妹で、伊明さまはゆめのもう一人の兄さまで」
「由芽伊様」
「だから、だからルリはゆめの姉さまでっ」
「おやめください。また実那伊様に叱られますよ」
びく、と由芽伊の肩がふるえた。それでも由芽伊は張間から離れない。どころか、ぎゅうっといっそう強くしがみつく。
傍目にもわかるほど、張間は困り果てていた。邪険にすることもできずにいる。宗家の娘が相手だから――だけでは、なさそうだった。
「琉里!」
伊明の声に、振り返る。
「こっち来い、琉里!」
「待て!」
張間が止めようとするのを、
「だめっ」
由芽伊が止める。
「由芽伊様……!」
「だめ、はりま。だめ」
思わぬ加勢に、救われた。
琉里は由芽伊に感謝しながら、身をひるがえした。伊明のもとへ戻って黒服の一人に思いっきり蹴りを打ち込んでやる。片腕が解放された伊明もすぐに気勢を取り戻し、もう一人に力任せに拳を叩きつけ、地面に沈めた。
「伊明、大丈――」
「なに考えてんだお前!」
いきなり怒られた。ほとんど無意識に肩を掴んできた伊明は、しまったという顔をして手を離す。不機嫌そうに顔をそむけて、
「手ぇ出すなって言っただろ」
「だ、だって」
「だってじゃねーよ、ここは宗家のど真ん中なんだぞ。勝手なことすんな、無茶すんな」
「どっちがっ……」
どっちが無茶なのか――言いかけて、言えなかった。
腹をかばうように片腕で抑える伊明の顔色は、暗がりでもわかるくらいに悪かった。丸めた背中。張間にさんざん痛めつけられた体。くそ、と毒づく声も細い。
「ともかくあの子のおかげで助かった。今のうちに遠野先生たちと合流しよう。あいつも探さなきゃなんねーし」
「……お父さんのこと?」
「ああ。勝手にここに乗り込んで、勝手に身動き取れなくなってるらしい」
「え!?」
伊明がちらと琉里を見て、
「心配すんな。無事だよ、たぶん」
そういって母屋に顔を向けた伊明の顔が、とたんにぴしと音の聞こえてきそうなほどに強張った。腹をおさえていないほうの腕で、琉里を後方に押しやる。互いの血が反応しあうのも構わずに。
――先ほどから、ちらちらと琉里の目にも入ってはいた。
色彩を失ったような薄灰色の着物。外廊下の壁に背中をつけ、腕組みをし、自分たちを見下ろしていた細長いシルエット。どことなく父と似ている面立ちの、眼鏡を掛けた和装の男。
傀儡人形みたいにすうと動きだし、草履を引っ掛けて庭に降りた。
伊明を包む空気がぴりぴりと緊張する。張間以上に、彼を警戒している。
琉里は対峙するのは初めてだった。
宗家当主代理にして伊生の実弟――卦伊。
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