トガノイバラ#59 -3 異端者たち…22…
傷つけられた左腕をおさえていた伊明が、やがて、ぼそりと呟いた。
「――識伊が……」
「あ?」
「俺の異父弟が、言ってたんだ。シンルーは神の矢だって。……じゃ、ギルワーは? 琉里や、和佐さんは?」
返ってきた短い沈黙。
かち、とライターの着火音が乾いて響く。
「おかしいと思うか?」
薄い紫煙を吐きだしながら遠野が訊き返してくる。
耳を疑うような言葉だった。
「思うか、って……いや、おかしいだろ。おかしすぎんだろ。なんで……なんのためにいるんだよ、まるで狩られるために存在してるみたいじゃねーか。誰かれ構わず人を襲うんならともかく、普通に生活することだってできるのに、まるで……」
ぐ、と声が喉に詰まる。
「……まるで、シンルーが特別だって……そういうの、証明する道具みたいに……」
あまりにも、残酷だ。一方的な被虐者ではないか――。
「でもね、伊明くん」
なだめるように柳瀬がいう。
「表に出てないだけで、実際、ギルワーが起こした事件もたくさんあるの。今はずいぶん減ったけど、昔はそうめずらしいことでもなかったのよ」
「昔だろ、今は違うんだろ」
伊明が噛みつく。
だから、と柳瀬が語気を強めた。
「だから、シンルーのなかには伊明くんと同じように疑問をもって家を出る人も多いらしいし、古いしきたりに縛られずに普通の人間として生きたいっていうギルワーも増えてて――」
「ならほっとけばいいじゃねーか! なんでわざわざ」
捕まえて、『狩り』なんて。
「あのね、伊明くん。どこにでも、異端をほっとけない過激な連中っているものよ。どの時代にも」
「そんなのッ……」
言いかけた、そのとき――横から遠野の拳が飛んできた。
「いい加減にしろよ、伊明」
伊明の左頬を力任せに殴りつけた遠野は、苛立ちを隠そうともせずに真っ向から伊明を睨みつける。
「なにが悲しくて、てめえみてえなクソガキに同情されなきゃならねえんだ。一言でも、和佐が恨みごとを言ったか? 自分がみじめな存在だと、可哀想な存在だと――ギルワーに生まれついたことを後悔してると、一言でもあいつが言ったか」
「……でも……だって……こんなの、理不尽すぎるだろ……」
「理不尽だなんだって文句垂れて当たり散らせるのはな、伊明、てめえが世間から守られて、ぬくぬく育ってきたからだ。断言してもいい。理不尽だの不条理だのこそ世の理だ。十あるうちの一くらいしかスジが通らねえのが、この世の中なんだよ。
お前がどう思おうと何を咆えようと、そんなもん、ギルワーにとっちゃクソの役にも立ちゃしねえ。あるだけ邪魔なんだよ、クソガキの同情なんざ」
「院長。言いすぎです」
柳瀬にたしなめられ、遠野は握っていた拳をひらいてシートにぼすりと背を沈めた。腕組みをし、鼻を鳴らし、でもどこかばつが悪そうに、
「……こいつが御木崎の野郎とソックリなのが悪いんだよ」
「おとなげないんだから」
伊明は――ぴくりとも動かなかった。
殴られた格好のまま左頬をおさえていたが、ややしてからもぞもぞ身じろぎ、体勢を戻した。背中を丸めて、両膝に肘をつき、垂れた頭を両手で支える。
頬が震える。奥歯を噛む。立てた爪が皮膚に食いこむ。
瞬きひとつ落とさないまま、伊明はじっと、自分の足元を凝視していた。
少しでも、気を緩めたら――瞳をゆるめたら――。
容赦のない拳に、心的武装は完全にはじき飛ばされていた。
そうして初めて、伊明は、自分が無意識のうちにそれを行い、それでもって自身の心を護っていたのだと気がついた。傷を塗りつぶしていたことを、自覚した。
なにかあったとき、なによりも先に出てくる怒りの根幹。
苛立ちの焔で、煙で、掻き消していたもの。
不安や、怖れや、悲しみや――寂しさや――怒り以外の負の感情。
それらをうまく処理することのできない無器用さ、向き合うことを怖れる脆弱さ。他人に攻撃的な態度をとることで、懸命に、均衡を保ってきた。
それがなくなった今、伊明は傍目にもわかるほど無防備だった。
窺うような遠野の視線にも、柳瀬がなにか言うのにも応えられず、二人が言葉を交わしているのも、耳に入ってはいてもまったく意識の外にあった。
伊明くんは背も高いし、大人びて見えることもあるから忘れがちだけど――。
私たちでさえ感情の処理に困るような世界だもの――。
考えてみればあたりまえよね――。
「まだ、高校生なんだもの」
自身の名を耳が拾ってから、じわじわと意識に入り込んでくる柳瀬の言葉。
ひときわ同情的な声を聞いたとき、伊明はいっそう強く歯をくいしばった。ふくれあがったいろんなものが押し寄せて、せりあがってくる。
それでも――それらを見せることは、しない。
なけなしのプライドが許さなかった。
車内はしばらく無言が続いた。
誰もなにも言わず、車の走行音と、隔てられた外界の音だけが車内に重たく流れていく。
「おう、伊明」
遠野がちょっと気まずそうに、いくらか声を和らげて、
「琉里のことは心配するな。このまま引く気は、俺にはない。――お前の父ちゃんも、たぶん動いてる」
――父さんが?
伊明がのろのろと顔をあげる。
遠野は、一気にやつれたような伊明の顔から、すっかり陽の落ちた窓の外へと視線を投げ、
「御木崎の家に乗りこんでるはずだ」
「えっ、そうなんですか!?」
素っ頓狂な声をあげたのは、柳瀬だった。
遠野はそれを綺麗に無視して。
「だから心配しなくていい。伊明、お前と琉里には味方がいる。あいつが――御木崎が、お前たちに残していった味方がな」
「……味方……?」
伊明は、丸めていた背中を起こした。
そういえば――と今さらになってカーナビの画面に瞳を向けた。
いつまで経っても走行を続ける車は、自宅や診療所とはてんで違う方向に進んでいる。
「この車……どこに……?」
「シンルーの隠れ家だ。――『神の矢』としての役割を捨てた異端者たちのな」
【第三章・完 物語は最終章へ…】
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