トガノイバラ #57 -3 異端者たち…20…
「遠野先生、いったい――」
黒塗りのセダンから逃げだした伊明は、走行するメタリックブルーのクラウンの後部座席で遠野の応急処置を受けていた。
さすがは医者、いや、くさっても医者というべきか。
常備しているのかわざわざ持ってきたのかはわからないが、遠野の愛車のトランクには医療アイテムが入っていた。もちろん専門的な薬品の類や機器類ではなく、薬局で簡単に手に入るような消毒液やガーゼ、包帯といった程度のものではあったけれど。
「なにが、あったんですか」
くるくると伊明の腕に包帯を巻く遠野は、明らかに、乱闘のあとといったふうだった。
いつも雑に撫でつけられている髪は乱れて額に掛かり、右頬と左の目もとに殴られたような痣ができている。服もしわだらけ――これもいつもそうなのだが、いつも以上にしわくちゃになっていた。
救出劇にいたる経緯よりも、そっちのほうが気になった。
遠野は、琉里といたはずなのだから。
「すまん、伊明」
唸るようにいって、遠野は悔しそうに顔をしかめた。
「琉里を連れていかれた」
「…………」
まさか、とは思っていたが、やはり――。
目の前が真っ暗になるような感覚をおぼえて、伊明は思わず額をおさえた。
「つい一時間くらい前のことよ」
遠野の代わりにハンドルを握る柳瀬が、バックミラー越しに伊明に瞳を向け、言った。
診療所に突然、黒いスーツを着た男たちが乗りこんできたのだという。
彼らは最初に伊明の居場所を訊いてきた。ここにはいない、どこに居るかはわからないと答えると、そうですか、では琉里さんはいらっしゃいますか、と質問を改めてきた。
いない、と言い張ったが駄目だった。病室で検査に行くため外出の準備をしていた琉里を、実力行使で連れ去ってしまったのである。
「クラートのハリマとか言ってたけど――すごいのね、あの人。院長、二発でのされちゃったのよ。まあ私なんか一発だけど」
「柳瀬さんも殴られたんですか」
「おなかをね」
顔じゃなくてよかったわよ、と柳瀬はこともなげに付け足してふふと笑った。
「すまん、俺がついていながら」
遠野は苦い顔でどちらにともなく謝った。包帯を留め、もう一度「すまん」とくぐもった声で言う。
応急といえども丁寧な処置を受けた左腕を撫でながら、伊明は悄然と首を振った。
「俺も……俺も、謝らなきゃならないこと、あるから」
「和佐のことか」
すぐに返ってきたその名に、驚いて顔をあげる。遠野はかたちばかりの笑みを見せ、伊明から視線を外した。
「あいつ、診療所で――御木崎の事務所にお前を連れていくって言ってたんだ。お前が琉里と話してるときにな。……張間が出て行ったあと……嫌な予感がしたっつうか、こう、心配になってなあ。車とばして様子見に行ったんだが」
そこまで言って、ガーゼのきれはしだの消毒液だのを片付けていた手を止める。伊明に向け、肩をすくめて、
「俺は、御木崎とは中坊の頃からの付き合いだからよ、奴の家のことについちゃわりとよく知ってんだ。たぶんお前よりもな。だから、あのビルの前に停まってた霊柩車みてえな車が、奴の家のもんだってことはすぐにわかった」
「院長、殴り込みかけて伊明くんたちを奪還するってきかなかったのよ」
柳瀬がいくらかトーンを落とし、言葉をはさむ。
「でもほら、あのハリマっておじさまにボロ負けしてるわけでしょう。ああいうのがゴロゴロいるとなると……ちょっと、ねえ。下手したら奪還どころか、気絶させられてるうちになにもかも終わってました、なんてこともありそうじゃない。そうなると、本当にもう、私たちにはどうすることもできなくなっちゃうから」
「だから。さんざん言ったろうが。張間が特殊なだけで、他は有象無象のカスだ」
プライドを抉られたらしい、遠野が眉をつりあげ反論する。
「特殊って?」
伊明が訊くと、遠野はがしがしと頭を掻きながら、
「元軍人だったか、どっかの特殊部隊にいたんだか――詳しくは知らねえが、御木崎からはそう聞いてる。昔はそりゃもうバリバリにならしたらしくてな。……ああ、お前の父ちゃんに体術のイロハを教えたのも、あの張間だ」
「あの人が……」
どうりで、あの身のこなしだ。
「だからね」
張間の話題をばっさり切って、柳瀬が進める。
「とにかく、できるかぎりの準備だけをしておいて、動きがあるまでは待とうってことになったのよ。クラートだかなんだか知らないけど、さすがに、いきなり和佐くんを手に掛けるようなことはしないだろうって。伊明くんと一緒に彼を助け出せる機会も絶対あるから、って。
……でも、気づかなかった。わからなかったのよ、私たち。まさか、あんなところに宗家の人間がいるなんて……思わなくって」
識伊と――実那伊。
「だから、出てきたあなたたちを見て本当に驚いた。伊明くんは血だらけだし、和佐くんの姿は見当たらないし」
後片付けを終えた遠野は、やはり苦りきった顔つきで、ごそごそとスラックスのポケットを探った。煙草を取りだし、窓を開け、火をつける。
すっかり無口になった遠野に代わり、柳瀬が続けた。
「それで、伊明くんたちが出たあとに急いで事務所に入ってみたら……」
和佐が血のなかに倒れていたのだ。
「うちの院長ってほら医者のくせにとんでもない単細胞でしょう? 怒り狂って追いかけようとするから、また私が止めてあげて――」
「柳瀬」
たまらずといった様子で、遠野が遮る。
「クビになりてえか」
「できるものなら、どうぞ。誰のおかげで伊明くんを助けだせたと思ってるんです?」
二の句が継げなくなった、らしかった。遠野はますます渋面をつくって煙草を口にはさみなおす。
「まあそれでね、いろいろ手を打って、あの交差点で伊明くんを奪還したってわけ」
軽い調子でそう締めて、柳瀬が肩をすくめた。ものすごい端折り方ではあったが――たしかに伊明の訊きたいことはその先にある。
「あの、和佐さんは」
柳瀬の口調からして、もしかしたら、と思った。
もしかしたら、和佐は気を失っていただけなのかも、と。
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