僕のねこ、夏 #6 用品店のさくま…1…

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 ある日散歩に出た僕は、すこし足を伸ばして街に出た。とくに目的もなかったが、なんとなく気が向いたので電車に乗って三つ先の駅に降り立った。

 夏と過ごす三度目の冬で、平日の夕方だったと思う。

 住宅地である僕の町と違って、そのあたりはよく栄えていた。学生服を着た若者からしゃなりしゃなりと歩く婦人まで、さまざまな人たちでにぎわっていた。

 ふらふらと気ままに歩きまわっていた僕は、裏道でふと足を止めた。ペット用品の専門店を見つけたのである。

 そういえば缶詰がきれそうだったなと思いだし、ガラス張りの窓から中を覗きこんだ。人通りの少ない裏道に面しているだけあって、店内には客もあまりいないようである。
 外から見えたひとりふたりは、近所の人間らしい軽装で、買い物カゴをぶら下げてうろうろしていた。

 僕はすぐに扉を開け、中に入った。古びたドアベルの乾いた音が僕を出迎えた。

 店内は犬用の品ばかりであった。それでも奥の一画には鳥やウサギなど小動物用の棚が設けられており、犬用品とそれらの間に、僕の目的である猫用の品物が、そこそこのスペースを使って並べられていた。

 ペット用品店というところに初めて足を踏み入れたものだから、その品数の多さにはとにかく驚いた。棚にびっしりと並ぶ缶詰など、人間の嗜好品のごとく味もさまざま、種類も豊富なのである。

 そこから普段買っているものを見つけて取り上げた僕は、そこに、いくつか別の缶詰を混ぜてみた。少々高価なものである。

 夏はいつもと違う味に驚くだろうか、そちらを気に入ってほかを食わなくなったら困るな、と考え直し、すぐにそれらを元の場所に戻した。なんせ近所に売っていないのだから、缶詰がきれるたびに札を握りしめてここまで来なくてはならなくなる。

 けれども、飯はうまいほうがいいに決まっている。僕ばかりが飯塚の持ってくるつまみに満足していては、なんだか夏に申し訳がたたないように思えてきた。僕はふたたび高価な缶詰を手に取った。

 レジカウンターに向かおうとしたところで、目に留まったものがあった。

 首輪である。

 僕は足を止めて、まじまじとそれを眺めた。
 雑然と並ぶ、色とりどりの首輪。僕の頭よりすこし高い位置から下に三本、棚に掛け渡された突っぱり棒のようなものに、無造作に、これまたびっしりと引っかけられていた。缶詰の棚とは対照的に色分けも種類分けもされておらず、てんでばらばらだ。

 僕は上段の端から端までをじっくりと眺めて、中段へと目を移した。女性が好みそうな可愛らしいものから革製のシックなものまで、本当にいろいろあった。

 僕は、僕のねこならばいったいどれが似合うのだろうかと考えてみた。

「首輪をお探しですか?」

 突然、横から声を掛けられて飛び上がった。その拍子に重ねて持っていた缶詰がばらばらと床に落ちた。

 すると横に立っていたその人は、僕よりも早く腰をかがめて拾い集め、さらに「ちょっと待っててくださいね」と言葉を残し、僕の缶詰を持ったまま小走りでどこかへ行ってしまった。取り残された僕は、その後ろ姿をただ呆然と眺めるだけであった。

 その人が店員らしいと気づいたのは、買い物カゴを持って戻ってきたときである。うぐいす色のエプロンに薄っぺらい名札が留められていた。

 僕は「どうも」と答えてカゴを受け取った。棚に向き直り、首輪を眺めるふりをして横目でその人を盗み見る。

 真面目そうであか抜けない感じの、おとなしそうな女性だった。線が細く、黒い髪と白い肌の色味の少ない人である。名札には、ひらがなで「さくま」と書かれていた。

「首輪をお探しですか?」

 彼女は同じ質問を繰り返した。買うつもりなどない僕は、はあ、と曖昧な返事をした。

「首輪ってすこしむずかしいんです。うち、サイズが合わなくても返品できないことになってるから、相談に乗りますよ」

 なめらかで愛嬌のある声は、僕が受けた彼女の印象にまったくそぐわないものであった。僕はすぐに断ることができず、また、はあ、と曖昧な返事をしてしまった。

「猫ですよね」
「はあ、まあ」
「どのくらいの大きさですか」

 僕はすこし考えたあとで買い物カゴを肘に引っかけ、両手の幅を夏のサイズに合わせた。カゴの中で、缶詰ががちゃがちゃと音を立てる。

「このくらい。そのへんを歩いている野良猫と同じくらいです」

 彼女が笑いだした。笑う要素などあったろうか、質問に答えただけなのに、と不満に思った僕は、眉をひそめて彼女を見た。

「あ、ごめんなさい。そういう言い方をする人って、あんまりいないから」
「はあ、そうですか」
「みなさん、体重とか猫種で答えるんですよ」
「でも、それじゃあ首の太さなんてわからない。猫だっていろいろいるんだから」
「そうなんです。本当にそのとおり」

 彼女はまた笑って、頷いた。

「そのくらいの猫なら、このへんです。これより下だと、たぶん、ぶかぶか」
「はあ、そうですか。どうも」

 僕は言われたとおりに上段を眺めることにした。
 それで終わるものと思ったからなのだが、意外にも彼女は僕の隣に張りついたままだった。笑顔を浮かべて、一緒に首輪を眺めだしたのである。

 僕はどうにも落ち着かなくなって、早くこの場を離れたいと考えはじめた。無言で立ち去るのは気が引けて、かといって体のいい断り文句も見つからず、僕はただただ所狭しとぶら下がる首輪を眺めるだけになった。

 彼女はそれを、購入に向けて迷っているものと判断したようだ。

「何色の猫ですか?」
「薄茶色というか、白っぽい茶色というか」
「オスですか?」
「そうです」
「じゃあ赤か緑が合いますよ」

 僕はまた言われた通りの色に視線を移していった。

 赤は、とにかく種類が多かった。
 原色のもの、えんじ色のもの、柄が入っていたりハートの飾りがついていたり、猫の首輪らしく鈴がついているものもあった。

 ただ、夏と赤色というのはどうにも結びつかない。緑を探してみた。

「これ、地味に人気があるんです」

 そう言って彼女が指さしたのは、布製の唐草模様の首輪だった。
 なんだか飯塚が好みそうな柄である。人気があるというのだから、飯塚と同じく洒落好きな人間はそこかしこにいるらしい。

 僕がなにも言わなかったので、彼女はすこし気まずい思いをしたらしかった。ええと、と続けて、もうひとつを指さした。

「私は、これがきれいだと思います。すこし高めですけど」

 それは、深緑色の革製の首輪だった。

 深くて優しい緑が、蛍光灯の白い光を反射してつやりと光った。
 湿った風にあおられて波打ち、輝く、真夏の木の葉の濃い部分だけを集めたような、僕好みの色であり、また夏らしい色だった。

 僕がそれに向かって手を伸ばしたところで、彼女があっと声を上げた。

「落ちないようにくくりつけてあるんです。私が取りますね」

 そうか、と思って引き下がったはいいものの、僕よりもはるかに背の低い彼女は、上段のそれを取るのにずいぶん苦心していた。つま先で立って、指先をふるわせているのである。見ていて危なっかしい。

 僕はもう一度手を伸ばして、自分で取った。
 くくりつけられているといっても、ベルトのように留められているだけだったので、僕でも容易に外すことができた。ついでに、端に引っかけられていた唐草模様の首輪も取った。
 飯塚との話のたねにでもなればと思ってのことである。

 これらを夏につけるかどうかはさておいて、なんだかんだ世話を焼いてくれた彼女への義理を果たすために、僕は手にしたふたつをカゴの中に放りこんだ。

「きっと喜んでくれます」

 そう言った彼女が、嬉しそうに微笑んだ。

 帰宅したのがちょうど夏の夕飯の時間だったので、僕はさっそく、新しい缶詰をふるまってやった。
 夏はそれをぺろりと平らげ、なんとも満足そうな顔を見せてきた。気に入ったか、と聞くと、僕の足に顔をこすりつけた。

 病院に行った日以来、無意識のうちに夏に声をかけることが多くなった。夏は夏で、こうして体をすりつけるようになり、よく鳴くようになった。もともと甘えたがりだった僕のねこは、さらに甘えたがりになったようである。

 僕は、次に飯塚が来る夜まで、首輪の入ったふたつの小袋にはいっさい手をつけなかった。無地の白い紙袋に簡易的に、けれど丁寧に包装されたそれらは、戸棚に並べた缶詰の奥で眠っていた。

 用品店を訪れた日から一週間が経って、ようやく、飯塚が酒とつまみをぶら下げて玄関先に現れた。彼を居間に通した僕は、いつものように台所に立って、コップをふたつ用意した。

 飯塚とは、このときすでに三年近くばんともとして交流を続けていたから、せんべいのかわりに、あのとっておきの熟成ハムを用意するのが当たり前になっていた。

 僕は、フライパンに乗ったハムがじゅうじゅうとうまそうな音を立てるのを聞きながら、戸棚に整列させた缶詰をかき分け、例の小袋をひとつだけ取り出した。
 袋の右下に目印として書いてもらったちいさな黒丸を確認し、コップと皿をそれぞれ持って、飯塚の待機する居間へ戻った。

 見せたいものがあるなどと、そんなことは言わない。

 普段どおりにコップを並べ、ハムの皿をテーブルの真ん中あたりに押し出して、飯塚の持ってきたつまみと酒瓶の封を開け、と、そんな具合にしれっとした顔で準備を進めていると、目ざとい飯塚は、すぐに紙袋に気がついた。

「なんだね、それは」

 僕は小袋を渡した。
 びりびりと雑な手つきで開封した飯塚は、唐草模様の首輪を取りだしてまじまじと眺めたあと、はじけるように笑いだした。

「これはおもしろい。君もだいぶ洒落がわかってきたようだ」
「変だとは言わないんですか」
「いいや、これはとても気が利いている。変ではなく、おもしろい」

 僕はすこしばかり得意な気持ちになった。
 けれどもここで、そうでしょうおもしろいでしょうなどと受けて立つのはナンセンス。飯塚からそれを学んでいた僕は、そうですか、とだけ答えた。

 すると飯塚は、ご機嫌な様子で口をひらいた。

「だって君、泥棒猫なんて言葉があるが、まさかそれをこの目で見る日が来ようなんて思わないじゃないか」
「僕のねこは泥棒じゃありません」
「もちろんそうだ、わかってるとも」

 飯塚は楽しそうに頷いた。

「なつには、もうつけてみたのか」
「いえ、つけてません」
「もったいない。つけてごらん。ほら、なつ、おいで」

 飯塚は、ちちち、と舌を鳴らした。僕の隣でまるまっていた夏が顔を上げ、体を起こし、飯塚の傍へ寄っていった。

 このころには、夏もすっかり飯塚に慣れていた。飯塚は、夏の餌付けに見事成功したのである。

 彼はよく夏への土産だと言って、酒やつまみと一緒にまぐろの切り身を持ってきていた。夏はたいそう気に入ったようで、飯塚が舌を鳴らすとそれをもらえるものと期待して近づいていくのである。

 まったくもってげんきんだが、かくいう僕も、飯塚の晩酌セットを楽しみにしているのだから似たようなものである。

 傍らにやってきた夏の背中をぽんぽん叩きながら、飯塚は、唐草模様の首輪を僕に手渡してきた。

 受け取ったはいいものの、僕はどうも夏の首に宛がう気にはなれなかった。

 飯塚が洒落で自分の犬にみつばちの格好をさせるのはいいとしても、僕自身が僕のねこにそれをすることにはひどく抵抗があった。

 僕はそれを飯塚に話した。飯塚は、そうか、と言って残念そうな顔をした。ふたたび首輪を手にすると両端をつまんでぴんと張り、夏に向け、片目を細めた。

「なつは緑が似合うな。なぜだ、ラッキーたちには合わなかったのに」

 僕は頭の中で、二匹のずんぐり犬に緑を合わせようとしてみたが、たしかにうまくいかなかった。同じような毛色をしているのに、と首を傾げたところで、あの二匹の首に深紅の首輪が巻かれていたことを思いだした。

 用品店の彼女の見立ては、正しかったのである。


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