僕のねこ、夏 #5 ねこの異変…2…
「あらあら。ナツちゃんはやんちゃさんなのねえ」
僕が振り向いたとき、奥方の顔には笑顔が張りついていた。僕はつい手を止めて、その顔を眺めた。
奥方はさらに愛想笑いを深めると、僕の前に三つ折りにされた一枚の紙を差し出した。動物病院のパンフレットだ。
「裏に地図が載ってますから」
裏返してみると、確かに簡単な地図が載っていた。病院の住所、電話番号、診療時間などの情報も一緒に記載されている。
「ただねえ、すこし混んでるみたいで。電話してみたら、今から行っても一時間は待つかもしれないって、病院の方が。一応、予約は入れておきましたけれど」
「はあ、ありがとうございます」
「本来、予約は取らないところなんですのよ。懇意にしていただいているお医者さまですから、すこし無理を言ってお願いしましたの。早く診ていただくにこしたことはないと思って」
「はあ、そうですか。ありがとうございます」
僕は二回ともちいさく頭を下げた。奥方の顔に苦笑が浮かんだ。
そこで会話が途切れたので、僕はかごにとらわれた夏を眺めた。
いつのまにか近づいていた二匹のずんぐり犬が、ソファーに前足を引っかけて、僕のねこを見下ろしていた。
夏は、正面を向いたままじっとしていた。
奥方はなにも言わなかった。もうひとつの白いソファーに腰を下ろして、頭の後ろで結った団子髪を何度も撫でつけたり、ギリシャ数字の刻まれたアンティーク調の壁時計を見上げたりしていた。
そのしぐさを横目に捉えていた僕は、しばらくしてから、ようやくその真意に気がついた。はっとして立ち上がる。
「すみません。長々と」
「いいえ、いいんですのよ。どうせ時間はあるんだから、ゆっくりなさっていって」
さすがの僕でも社交辞令だとわかった。僕はコーヒーカップにもチョコ菓子にも手を付けず、夏のかごを抱えた。
「お借りします。あとで返しに」
「結構です」
ぴしりと遮られた。
「さしあげますわ。これからも必要でしょうし、どうせ物置の肥やしになっていたものですから」
「はあ、そうですか。では、どうも」
不愉快になった僕は、頭も下げずに踵を返した。
僕に対して、良い感情を持っていないだろうことは明らかだ。それまでもその目付きからなんとなく察してはいたのだが、このとき、はっきりとそれがわかった。僕の中にあった奥方に臆する気持ちは、影すら見せずにすうと引いた。
「たいしたお構いもできませんで」
白々しい定型文を僕は無視した。後ろをついてくる二匹の犬にも奥方にも目をくれず、玄関に出た。靴を履いたところで、ようやく、見送りに出ようとスリッパを脱いだ彼女をちらと振り返った。
「立派なお宅でうらやましい。ご主人をつかまえた貴方は、賢いですね」
僕は、奥方のつややかな色合いの唇が引きつるのを見留めてから、悠々と外に出た。
しかし家に帰ってすぐ、僕は自分のしたことを後悔した。
いらだちに任せてつい嫌みな口をきいてしまったが、思い返してみれば、被害らしい被害をこうむったわけではないのである。
僕に対する彼女の感情や裏表がありありと見えるあの態度はさておいて、普段から飯塚を介して世話になっているのだし、今回の病院の件にしたって事実だけを見ればずいぶん親切にしてくれたのだ。
僕は大人げない感情に動かされてはたらいた非礼を、顔から火が出るくらいに恥じた。しばらく動きたくなくなるほど、気分も落ちた。夏が出してくれと訴えかけてこなければ、僕はそのまま、何時間も玄関先に座りこんでいただろう。
ふたを開けてやるなり、夏はぴょーんと飛びだして、驚きのスピードでもって奥の書斎へと逃げていった。
そんな夏の姿を見るのはじつに久しぶりで、可哀想なことをしたと思う反面、すこしばかりのおかしみを覚えた。
僕はひとまず居間に戻って、せんべいをかじった。ばりばりとせんべいを噛み砕きながら、恥と罪悪感とたたかった。「そもそも奥方の態度がいけないのだ。僕が嫌いなら、愛想笑いなどせず追い返せばよかったのだ」と責任転嫁をしてみたりもしたが、結局、僕の気分は変わらなかった。
気がついたときには、すでに一時間以上が経過していた。
僕は飛び上がった。奥方がどのような予約の取り方をしたのか知らないが、とにかく、今はもう病院にいなければいけないはずの時間である。
僕が書斎に駆けこむと、ふとんの上で丸まっていた夏が、僕の横をすり抜けて逃げだした。僕は慌てて追いかけた。軽やかに逃亡する夏を、どたどたと廊下を踏み鳴らして追いかけた。
夏は、台所のすみで身を縮こめていた。僕は夏を抱えあげた。じたばたもがくので、ますますかごに入れていかなければならなくなった。
先ほどのようにおとなしくしがみついてくれていれば、まだ知らんふりでそのまま連れて行けたかもしれないが、これでは、家を出たとたんにまた逃亡してしまいそうなのである。
僕は仕方なく、夏をまたかごに入れた。奥方から受け取ったパンフレットをポケットに突っ込み、ファンシーなかごを抱えて、かかとのつぶれた靴を履いて、急いで家を出た。
動物病院の場所はすぐにわかった。
地図によれば大通りから住宅地に続く細道を折れて二つ目の角を曲がった先、僕の家からだと住宅街をくねくね曲がって十五分ほど歩いたところ、ときたま散歩で通る道である。
見知った家々の間に、唐突に、ぽつんと建っていたから驚いた。外観にも覚えがあったからなおのことだ。
僕は、扉一枚隔てた先の異空間を窺おうとした。
けれど磨りガラス製の扉はいくら顔を近づけても目を凝らしても、ざりざりした白濁色が目いっぱいに広がるだけで、中の様子まではわからなかった。
僕はかごを抱えなおし、覚悟を決めて、扉を開けた。
混んでいると聞いていただけに、拍子抜けしてしまった。こじんまりした待合室には四、五人の飼い主と、同じ数だけの犬がいるだけだった。
犬は大小さまざまだが、連れる飼い主は皆、飯塚の奥方と同じくらいか、あるいはもう少し上の世代の女性ばかりである。
その顔がいっせいに僕のほうへ向いたので、戸惑った。心もとない気持ちから、伸びてくる視線を避けるように前かがみになって正面の受付へ進んだ。
カウンターの中で忙しなくパソコンを叩いていた女性が、僕を見て手を止めた。僕は飯塚の名前を出したあとに、自分の名前を添えた。すると女性は、ああ、と言ってから時計を見上げて、すこし迷惑そうな顔をした。予定の時刻はとうに過ぎているのだから、仕方ないというよりほかにない。
すぐに案内されるものと思っていた僕は「少々お待ちください」との女性の言葉に、突っ立ったままそこで待った。
するとその女性はいつまでも動かない僕を見て、再開したばかりの作業の手を止めてから「お掛けになってお待ちください」と言い直した。僕は、一番近い椅子に腰かけた。
病院自体はそれほど大きくはなく、町のちいさなクリニックといったふうであった。
けれど僕の知る病院とはまるで違う。なごやかなのである。
飼い主同士の談笑の声、たとえば、可愛いわんちゃんですわね、とか、犬種はなんですか、とか、そんなゆったりとした声が、ほのぼのとした空気を作り出していた。ただ、笑い方もしゃべり口調もみんな気取っていて、なんともむずがゆい。
それに加えて、ときどきこちらを向く女性たちの目は、まるで異端者でも眺めるような、ひどく不快なものであった。
これもまた、仕方がないことはわかっている。みすぼらしい格好をしたぼさぼさ頭の男が、ファンシーなかごを抱えて、彼女らと同じように椅子に腰かけているのである。浮いてしまうのは当然だった。
僕はなんだか、あの飯塚の家で、飯塚の奥方に四方を囲まれているような得も言われぬ居心地の悪さを感じていた。だから、できるだけじっとしていた。半透明のふたの下で、おとなしく寝そべっている夏を眺めていた。
そのうちに、看護師に呼ばれた。
僕が立ち上がると、待合室にいた奥様方が、またいっせいに僕を見た。刺のある視線をひしひしと感じる。自分達が先に来ていたのに、とか、そんなふうに思ったのだろう。
普段の僕ならば、堂々たる顔つきと足取りで得意げな背中を奥様方に見せつけてやるところだが、残念なことに、このときの僕は朝のごたごたと未知の異空間に飲みこまれたことですっかりふさいでしまっていた。
体をまるめて、夏のかごにしがみついて、そそくさと診察室に逃げこんだ。
ちいさな診察台に乗せられた僕のねこは、獣医の手に渡っていじくりまわされた。
僕は、夏の威嚇を初めて見た。獣医も看護師も慣れたもので、手際よく診察を進めた。駄々をこねて泣きわめく子供でもあやすように声をかけ、体温をはかり、血を採り、尿を採った。
夏は何度も威嚇をして、大声で鳴いて、噛みつこうとまでしていた。僕はどうしていいのかわからず、嫌がる夏とそれをいなす獣医たちを、茫然と見ていることしかできなかった。
結果として、夏は腎臓を病んでいることがわかった。
処方された薬を受け取り、二週間後に経過を見せるようにとの指示を受けた僕と僕のねこは、この上なく疲れはてて家に帰った。ふとんに倒れこんだ僕の腹にいつものように夏が乗り、ふたりして、夜まで眠りこけた。
目を覚ました僕が寝ぼけまなこで夏に夕飯をやり、夏がそれをすっかり平らげて一時間と経たないうちに、ジャージ姿の飯塚が玄関先に現れた。
夏の姿を見てひとまず安心したと笑った飯塚は、まさに単刀直入、奥方となにがあったのかを聞いてきた。
ばつの悪い思いをしながらも、僕は包み隠さず朝のできごとを飯塚に話した。途中ついつい自己弁護じみた言い回しが入ってしまって、僕は何度も言葉を改めた。そして非礼を詫びた。
黙って聞いていた飯塚は、腹を揺すって笑ったあとに、あれは扱いがむずかしいのだと言って、僕に対する彼女の態度をさらりと詫びた。目的を果たした彼は、晩酌をせずに出て行った。
僕は扉が閉まってもなお、飯塚の背中を眺め続けた。正確には、狭く、暗く、静かな玄関に立ったまま、閉まったばかりの家の扉を呆けた顔で眺めていたのである。
洒落を好み世辞を嫌う飯塚が、あの世辞上手で愛想笑いのかたまりのような奥方とよくやっていけるものだと思った。夫婦という関係を実際に経験したことのない僕からすると、まったく不思議でならない。
けれども案外、あの夫婦はうまくやっているのである。
あの奥方は僕に対しては猫をかぶるのだが、飯塚に対してはまるっきり違っていた。気が強く神経質で頑固な面を、飯塚に対するときだけはさらけ出すのである。僕の目があってもそうだった。
飯塚が洒落を連発しようものなら、呆れた顔をして辛辣な言葉を浴びせる。小言が始まる。しかしひとたび彼女のツボに入ると、奥方は口をおさえて笑うのである。いやだわまったく、このひとったら、と言いながらおかしそうにするのである。
すると飯塚は、得意な顔で僕に目配せをしてくる。彼の洒落だの話術だのというものは、この奥方に鍛えられた部分も大きいのだろう。
さて、それからの夏は、もとどおりの夏になった。飯を食い、散歩に出かけ、僕のいたずらに応えながら、元気に過ごした。僕はそれで安心した。
それ以降、病院には行かなかった。
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