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ノスタルジック・アディカウント #2

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 帰宅すると、玄関に見慣れない靴が一足、脱ぎ散らかしてあった。

 男物の履き古したスニーカー。

 当然俺のじゃないし、父さんのでもない。
 父さんはスニーカーなんて履かないし、見るからにサイズも違う。そもそもまだ帰ってくる時間じゃない。

 ――姉貴が彼氏でも連れてきたのか。

 それならそれで、靴くらい揃えさせてやってほしい。母さんがパートから帰ってきてこんなの見たら、ぜったい顔を引き攣らせる。

「ったく」

 俺は薄汚れたスニーカーを揃え直してから、廊下に上がった。

「ただいま」

 リビングに入り、ドア横のサイドボードに鍵を置こうとして――。

「……ん?」

 また、違和感。

 思わず手を止める。

 ここにも見慣れない、ロックテイストなキーホルダーのついた鍵が、無造作に置かれている。姉貴が付け替えたのかと思ったけれど――姉貴の鍵は、その隣にちゃんとある。

 ――誰のだ。

 不審に思ってつまみあげようとしたとき、後ろのほうで、ゴト、となにかの落ちる音がした。

 振り返ると、ちょうどキッチンから出てきたらしい姉貴が固まっていた。

 目を大きく見開いて、バケモノでも見るような顔つきで俺を凝視している。片手に麦茶の入ったコップ。もう片方の手はからっぽのまま、不自然に宙に留まっている。

 その足元には、携帯が転がっていた。さっきの落下音はこれだろう。

「姉貴――」

 声を掛けようとして、俺はまたしても違和感に気づく。

 今度のそれは――悪寒をともなう、非常に厭なものだった。

 ドアの斜め向かいに、背を向けるようにして置かれたソファ。
 背もたれから飛びだしている金色の頭が、視界の端に映っている。

 俺はゆっくりと、瞳を向けた。


 驚愕している〈俺の顔〉が、そこにあった。


 俺は――いや、俺と、俺と同じ顔をもつ金髪は、とたんにパニックを起こしてなんだ誰だと叫び合った。
 「けーさつだ、けーさつ呼べ」と目を白黒させた金髪が繰り返し叫ぶのに対して、俺はここが自分の家であるというようなことをひたすら繰り返した。
 そして――本当に摩訶不思議なことなのだが、本当にわけのわからないことなのだが――自分がここの住人である『結城 佳(ゆうき けい)』であると〈互いに〉主張しあった。

 まぎれもない事実だから当然俺は引かないし、金髪のほうも譲らない。

 埒が明かず、俺たちは姉貴に詰め寄った。
 髪の色や眼鏡の有無をアピールしながら「俺がほんもの」と訴えた。

 はたから見たら地獄絵図か。
 正気の沙汰とは思えないやり取りだろう。

 呆然としていた姉貴は――なぜか――俺たちの頬を順に張った。いわゆる平手打ちである。

 姉貴に打(ぶ)たれたのなんて、小学校、それも低学年の時以来だ。

 痛みと驚きで憑物が落ちたみたいになった俺はようやく冷静さを取りもどし、「とりあえずあんたらちょっと座んな」と姉貴に促されるまま、金髪とダイニングテーブルに向かい合った。

 姉貴は間を取り持つように、テーブルの横に立つ。金髪はあからさまに不貞腐れている。

「――お母さんがいなくて、ほんっとに良かった」

 額に手をあて、溜息まじりに姉貴が言った。
 俺は壁に掛かっている時計を見る。時刻は六時にほど近い。

「でも、もうすぐパートから帰ってくるだろ」

「だから。今日は学生時代の友達に会うって出掛けて――」

 姉貴は途中で口をつぐんだ。
 金髪のほうに向けて答えていたが、彼が「言ったのあいつ」とばかりに顎で俺を示したのだ。声もまったく同じらしい。

「……ええと」

 当惑したらしい姉貴は、心底気味悪そうに俺を見る。

「ケイ、なの? ほんとに、キミ」

 頷くほかない。

「変なイタズラとか、たちの悪い冗談とかじゃなくて?」
「こっちが聞きたいくらいだよ。俺だって――はっきり言って、信じられない。わけわかんねーよ、この状況」

 金髪の自称『俺』を窺うと、しかめっ面でそっぽを向いている。
 姉貴は、うーん、と唸った。胸の前で腕を組む。

「っていってもねえ。キミには悪いけど、私の知ってる弟のケイは、こっちのバカだよ。私のことを『姉貴』なんて呼ばないし、キミみたいに賢そうな雰囲気だって1ミリもない――」
「アホみずほ」

 そっぽを向いたまま、金髪の『俺』が毒づいた。
 姉貴は容赦なく頭をはたく。

 ――そう。そうなのだ。

 自称『俺』は、姉貴のことを〝みずほ〟と呼び捨てにしている。
 そして姉貴も――さっきもそうだったけれど、気軽に『弟』をぽかぽかたたく。

 こういうやり取り自体、そもそも俺と姉貴はしないのだ。
 それこそ小さい頃は取っ組み合ったりもしたけれど、大人に近づくにつれて、口喧嘩すらしなくなった。

 だから、たぶん――

「やっぱり信じられないな」

 姉貴の声に、俺の思考は遮られる。
 かりかりと頭を掻いてから、姉貴は焦茶色の、セミロングの髪をかきあげた。

「――ちょっとごめんね」

 言うなりずいっと顔を近づけてくる。俺は思わず身を引いたが、両手でがっしりと頬をはさまれ阻まれた。無理やり姉貴のほうを向かされる。

「たしかに顔かたちはそっくり、っていうか、まんまケイよね。特殊メイク的な感じでもなさそうだし」

 長いつめが、俺の頬を引っかく。

「カツラでもなさそうだし」

 髪をひっぱる。

「やめろって」

 たまらず払いのけた。
 姉貴はすんなり手を離すと、うーん、とまた唸り、思案するように天井を見あげた。が、すぐになにか閃いたか、顎を引いて目を輝かせる。人さし指を立て、言った。

「わかった、アレじゃない? なんだっけ。ドッペルゲンガーとかいうやつ。あんたもうすぐ死ぬんだよ、ケイ」

 笑いながら言うことだろうか。
 しかし金髪の『俺』はとくに気分を害した様子もなくちらりと俺を横目に見やり、「いや、っつーか」と呟くようにして言った。

「ドッペルゲンガーって、普通、ゲンガー側は驚かねぇんじゃねぇの。お前死ぬぜって、本人に見せつけるために来るモンだろ」

 ――ゲンガーって。普通はドッペルのほうを取るんじゃないのか。どこのポケットなモンスターだ。

「自分以外に見えるのも変だろ。髪の色も違ぇし、ダセェ眼鏡まで掛けてるし」

 余計な世話だ。

 姉貴が怪訝そうに首をかしげた。

「なんであんた、そんな詳しいの。ゲンガーのこと」
「前、マンガで読んだ」
「なんのマンガよ」
「うるせーな、いいだろそんなの」

 すっかり蚊帳の外になってしまった俺は――あらためて、金髪の『俺』を観察した。

 椅子に片膝を立てて座っている。不貞腐れた態度で頬杖をついて、ときどき、ちらちらとこちらを窺う以外はほとんどそっぽを向いたままだ。
 部屋着は――あれは、中学のときのジャージの上下か。
 これもやっぱり俺とは違う。俺は基本的にパーカーを羽織って下はスウェットだ。ジャージはとっくに捨てている。

 たしかに顔は俺だけど、やっぱり彼は俺じゃない。

 そして――たぶん――。

「あの」

 軽口をたたき合っていた姉貴と『俺』が、ほとんど同時に振り返る。

「ドッペルゲンガーがどんなものか、俺は詳しく知らないけど――そうじゃない、それじゃないってのは、はっきり言える。俺、ついさっきまで……なんていうか、普通の生活っていうか――日常の中に、いたし。ここまでの記憶もちゃんとある。ただ、俺が異物だっていうのは――間違いないと、思う」

「異物?」

「俺は〈あなたの弟の佳〉じゃない」

 姉貴が神妙な顔で黙った。

 不意に訪れた沈黙をなぞるように、遠くから、トラックの重たい走行音とクラクションが聞こえてきた。ざわつきだした風が、窓を叩く。

「……なあ」

 不意に、俺が口をひらいた。

「なんでいきなり、そんなことになったわけ?」

 そっぽを向いたまま、『俺』が聞く。

「そんなのこっちが――」
「そーじゃなくて」

 『俺』は頬杖をといた。俺のほうへ、初めて顔を向けてくる。

「なんかなかったのかよ。おまえ、さっきまで普通だったって言ってたじゃん。なんかきっかけがあったんじゃねぇの?」
「きっかけ――」

 思い当たることは、あった。

「そういえば、電車を降りたときから変だった。違和感があったんだ、ずっと。景色の色味――みたいなものが、俺の知ってるのと違うって」
「色味?」
「そう。それから、スマホが圏外に――」

 そこまで口にして、気がついた。

「のの」
「は?」

 『俺』が訝しげに眉を寄せる。

「ののだ。ののだよ。あいつも俺と同じだったんだ、電車降りてからいきなりスマホが圏外になったって。もしかしたらあいつも」

 同じ状況に陥っているかもしれない。

 慌てて携帯を取り出したが――そうだ、圏外なのだ。連絡が取れない。
 俺は役立たずの携帯を握りしめたまま、向かいに座る『俺』に詰め寄る。

「なあ、ののと連絡とってくれないか」
「はあ? だれって?」
「ののだよ」

 とたんに、彼の顔がこわばった。

「……もしかして、深山音乃のこと言ってんの? 小学校のとき一緒だった」

 小学校の、とき。
 一緒だったのは、中学までだ。

 とたんに俺は混乱した。

「あいつの番号とか、俺知らねぇけど」

 え、と聞き返そうとした声が、のどにへばりつく。

「だってあいつ不登校だったし。高校上がってからは知らないけど、中学のときとか完全に引きこもりだったぜ。もう何年も会ってねぇよ」
「……のの、だぞ。深山音乃」
「だからそうだって言ってんだろ」

 ののが、不登校。
 引きこもり? あの、ののが?

 いや、でも――ありえなくはない。

 『俺』だってこんなに変わっているんだから。

 けれど、それなら。
 なおさら放っておくわけにはいかない。

 俺は立ちあがり『俺』の手首を掴んだ。

「ちょっと来い、おまえも」
「は? 来いって――」
「のののとこ」
「はあ? やだよ!」
「いいから来いって!」
「ふざけんなって! おい、離せよ!」

 俺は、嫌がる『俺』を引きずるようにして家を飛びだした。
 ちょっと、と――戸惑う姉貴に説明する余裕さえ、なくしたまま。




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