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ノスタルジック・アディカウント #12

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 久しぶりに発せられたのは、冷ややかな声である。目が据わっている。表情が消え、能面みたいになっている。

 俺は条件反射的にぎくりとした。

 これは――姉貴が本気でぶちギレているときの顔――だ。

 けれど『音乃』は、違います、と即座に否定した。

「彼に直接なにかをされた、とか……そういうことは、ないです。というかそもそも、嫌がらせや不当な暴力を受けたりしたわけでもなく、ただ無視されていただけですし、それで私が勝手に学校に行くのをやめただけですので……誰にいじめられたとか、誰のせいとか、そういうことではないです」

 それを聞いて、ののは複雑そうに顔をゆがめた。
 その気持ちは俺にもわかる。

 無視されていた〈だけ〉、学校に行くのをやめた〈だけ〉。

 ――〈だけ〉で済む話じゃないだろう。

 姉貴も同じように思ったらしい。

「誰かのせいじゃなくて、みんなのせいよね。クラスのみんな」
「いえ、それは――」
「そこにうちのケイも混じってたわけでしょ。だからあいつは音乃ちゃんから逃げ回ってる」

 すさまじい推進力。強引に導き出された姉貴の結論に、『音乃』は少し戸惑ったようだった。

「いえ、……いえ、彼は――結城君は――最後まで、気に掛けていてはくれました」

 姉貴が怪訝そうに眉を寄せる。
 俺も混乱してしまった。

 いくら言葉を重ねても、話が見えない。全然、掴めない。

 たぶん、順に事実だけを追っていけば、そう難しい話ではないはずなのだ。ただ、『俺』が逃げ、『音乃』がぼかし、しかもなにやら――これは俺の感覚だけれど――互いに気を遣いあっているような感じがする。

 どっちが悪いとも言わず名が出たとたんに霧の中。覆い隠されてしまう。

「え、と」

 なにを聞けばいいのか。なにを聞かなければならないのか。なにを聞こうとしていたのか。必死に頭を整理する。

「じゃあ、こっちの『俺』はなんで――」

 ――そうだ、避けているのか、だ。

「……結城君は」

 沈黙するかに思えた『音乃』は、静けさをなぞるような幽(かす)かな声で――過去を、綴る。

「結城君とは――ご存知でしょうが、幼稚園のころから一緒でした。小さいころは一緒に遊んだりもしましたし」
「そうよね。うちに来てたのも憶えてる」
「はい。だから、その――そういうのもあって、完全に見て見ぬふりっていうのは、できなかったんだと思います。帰り道で声を掛けてくれたり、教室でも、それなりに。ただ、それを見て、変な捉え方をする――というか、面白がるクラスメイトも――居たりもして」
「ああ」

 輪郭(シルエット)が、少しだけ見えた。

「――からかわれたのか」

 『音乃』は短い間をおいてから、頷いた。

「私ではなく結城君が、ですけど。クラスの男子や、石野紗枝に、その」
「いいよ、憶えてる」

 ののを見ると、彼女もまた頷いた。

「どういうこと?」

 眉をひそめる姉貴に、ののがそっと耳打ちした。

 たびたびあったのだ、俺とののも。どっちがどっちを好きだのなんだのと騒がれたり、黒板に名前を書かれたり。

 それは俺たちだけに限ったことではなく、持ちまわりのように――それこそ定期的にやってくる面倒な日直のごとくに――誰かが騒がれ、誰かが騒がれ、そのうちまた俺たちにまわってくる、そんな感じだった。

 俺もののもさほど気にしていなかった。

 しかし他のクラスメイトたち、とくに男子はからかいの標的にされるたびに否定しようと、かなり強い言葉を使うことも多かった。だれがあんなブス、とか、きもちわりーんだよ、とか、これみよがしに大声をあげたり、本人に言ってしまったり――。

 つまり、そういうことなんだろう。

 『俺』はおそらく〈それ〉をした。『音乃』を引き裂くような否定の仕方を、きっとした。

「あの頃のののにとっては、それってけっこう――」

 洩れ聞こえてきたののの声に、少しだけ、胸のあたりが軋んだ。

 ――あの頃の。

 泥濘のように、耳に言葉が纏わりつく。

「つまりこういうことね」

 冷淡な姉貴の声。推進力が、止まりかけた俺の思考を押し流してゆく。

「うちの弟(バカ)は、無視されて追い詰められてる音乃ちゃんに、もののはずみとはいえ、とどめを刺したってわけだ。あいつの性格からいって逃げてるね、間違いなく。避けてるんじゃなくて。謝りたくないから」
「いえ、あの」
「いいよ音乃ちゃん、かばわなくたって。帰ってきたら、私が責任もって締めあげてやるから」
「やめてください」
「いーや、やめない。泣き寝入りすることないよ。そりゃケイだけが悪いんじゃないのは私だってわかってるけど、それはそれ。人を傷つけておいて知らんぷり、なんて許されるわけないじゃないの」

「みぃちゃん」

 見かねたようにののが宥めたが、いったんエンジンの掛かってしまった姉貴はそれぐらいじゃ止まらない。くるりとののに背中を向けると、手首に掛けていたヘアゴムでざっくりと髪を束ねながら、

「この話はひとまず終わり。それよりみんな、おなか空いてるんじゃない? お昼ごはん食べてないんでしょ」

 調子を変えて言った。簡単なものでよければ作ってあげるよ、と振り向きもせずキッチンに入っていく。

 ののが眉を下げてちらと俺を窺う。
 しかし俺にも、どうしていいのかわからなかった。

「――みぃちゃん、ののも手伝うよ」

 ののは持っていたスレッドのコピーを俺に押しつけ、調子を合わせて姉貴の背中を追いかけていった。
 ありがとー、と姉貴の声。
 なにつくるのー、とののの声。
 明るくやわらかな二人の声が、凝った空気を押し流していく。急速に時間が進みだす。

 取り残された気分だった。
 俺は所在をなくしてかりかりと後ろ首を掻き、紙に目を落とし、それから『音乃』へと視線を移した。

 『音乃』は親指を噛んでいた。

 つめではなくて、指先を。
 皮膚が破れてしまうんじゃないかと思うほどに――強く。

 彼女を包む空気は、異質だった。

 同じ気分を味わっているだろうと勝手に思っていた俺は掛ける言葉を失った。キッチンと、隣と、こことで――世界が完全に隔絶している。

「……俺、ちょっと飲みもの買ってくる」

 立ちあがってキッチンへ告げる。外へ出るための口実だった。

 するとののがひょっこり顔を出して、ミルクティー、とちゃっかり言った。私コーラ、と姉貴の声もちゃっかり続く。

 当然といえば当然の流れである。
 仕方なく承諾し、『音乃』にも聞こうと顔を向けた。

 そしてまた驚いた。

 『音乃』はなんとも頼りない顔つきで俺を見あげていた。瞳が不安そうに揺れている。置いてけぼりを怖れる子供みたいだ。

「一緒に――」

 ――いや。

「携帯ないの不便だから、付き合って」

 『音乃』は一度瞳を下げてから、すっくと素直に立ちあがった。

「ちょっと行ってくる」

 ののにそう声を掛ける。すると彼女はなにを思ったか、不愉快そうに口をとがらせ、返事もなく、拗ねるみたいにぷいとキッチンへ引っ込んでしまった。

 俺は『音乃』を連れて家を出た。
 最寄りのスーパーではなく、少し遠回りをしてコンビニに向かう。

「……ありがとうございます」

 斜め後ろをひたひたとくっついてきた『音乃』が、ふいに、小さな声でそう言った。うん、と応じた俺は歩く速度を少し緩めた。


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