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ゆめゆめ、きらり #6

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「ごめんなさい。邪魔をするつもりじゃなかったんだけど」

 みかこがもう一度謝ってみても、少年は押し黙ったままでいる。隣にしゃがんで、これ、とふたたび絵筆を差し出したとき、ようやく彼の黒々とした瞳がついっと動いた。絵筆を見下ろす。

「いらないよ」
「でも」
「いらない」

 みかこはすっかり困りはてた。さすがにキャスケットもまずいと思ったのか、おずおずとみかこの傍らに立ってしっぽを垂らす。

「すまん。へんだなんて言って」

 少年の瞳が、またついっと動く。

「べつに。ぼく、怒ってるんじゃないから」
「じゃあどうしてそんなこわい顔をしてるの」

 少女が、みつまりから目をのぞかせた。けれど少年の瞳がそっちに動いたとたん、またすぐに隠れてしまった。少年はそれをじっと見たあと、穏やかな川へと視線を投げた。

「つまんないからさ」
「つまんないの?」

 少女が目をのぞかせる。

「そうだよ、つまんない」
「どうしてつまんないの? なにがつまんないの?」

 少年の口がへの字に曲がった。それに気づかない少女は、なおも重ねて聞く。

「つまんないから、こわい顔をしてるの?」
「うるさいな」

 いらだった少年の声に、少女は慌ててまりを持ち上げた。見兼ねたシルクハットが口をはさむ。

「君、そういう言い方はよくない」
「うるさいってば。あっち行ってよ」

 少年の表情がゆがむ。くるしんでいるみたいな顔だった。

「絵、すきなの?」

 みかこが聞いた。

「べつに。つまんないから、描いてるだけ」
「そう」

 みかこは少年の答えを、こころそのままのものとは受け取らなかった。けれど、それを表に出すこともしない。ただちいさくうなずいて、相槌を打った。

 少年がちらりとみかこを見た。みかこは気づかないふりをして、さらさらと、涼やかなせせらぎが聞こえてきそうな川面を眺めた。

「私は、絵を描くのすき。昔ね、絵の勉強をしたことがあるの。そのくらい、すき」

 少年はなにも言わなかった。みかこが続ける。

「この世界をえがけたら、とってもすてきね」
「ぼくはきらいだ。だいっきらい」

 少年は、低くうめくようにして言った。

「絵のこと?」
「この世界のことだよ」
「どうして。こんなにきれいなのに」
「きみはこの世界のひとじゃないから、そんなふうに言えるんだ。ぼくがきみの世界に行ったら、きっと同じことを言うよ」

 その反論は、みかこにとって意外だった。ぱちりと瞬いて、少年を見る。

「そうかしら」
「そうだよ」
「きれいじゃなくても?」

 少年は答えなかった。ただ川を見据え、まわりの空気をいっそうかたくさせるばかり。

 この少年は、削りたてのエンピツのつんととがったさきっちょみたいだ。やさしい水彩画のような世界の中で、彼だけがひとり、がりがりそがれた黒鉛みたいに、重たくとんがっている。

 みかこは、絵筆へと瞳を落とした。乾きはじめた筆先が、癖づいた形を取り戻そうとばかりにぼわんと広がっている。みかこの目に、強く握りしめた絵筆をキャンバスに押しつけ、乱暴に動かしている少年の姿が浮かんだ。

「きみの世界の話をしてよ」

 ぼそっと聞こえた少年の声に、みかこは顔を上げた。思わぬ要望にちょっとびっくりして、呆けた顔で聞き返すと、少年は、同じことを同じ調子で繰り返した。

 みかこは、首をかしげてうなる。

「ううん、どんなことを話したらいいのかしら。話せるような特別なことなんて、なんにもない。色であふれるこの世界と、ぜんぜん違うんだもの」
「たとえば」

 少年は、みかこを見もせず淡々と聞いた。

「そうね。森も川もあるけれど、どこか灰色っぽい気がする。空だって、どんよりくもってばかりだし。ひともそうよ。みんなみたいにきらきらしてなくて、いつも、毎日、追い立てられてるみたいなの。自分のことでせいいっぱい。私もそう。私のまわりのひとたちもそう。みんな、そう」

 少年は黙って聞いていた。けれど、みかこの声が途切れるなり、またぼそりとつぶやいた。

「きみはばかだ」

 え、とみかこがまたびっくりすると、少年は振りかえって、「ばかだ」ともう一度言った。

 少女がむっと眉を寄せる。

「どうしてばかなの」

 少年は、みかこの手から絵筆を奪い取った。彼が向き直ったイーゼルには、不思議なことに、いつのまにかまっさらなキャンバスが掛けられている。

 絵筆を握りしめた少年は、パレットを取り上げ、紺色をすくって乱暴に筆先をすべらせた。

「きみは知らないんだ。つまんないの本当の意味を。ぜんぶ知ってるみたいな顔でいて、それだけはわかっちゃいない」

 上半分が、紺一色に塗りつぶされた。ゆっくりと離れた筆先が、違う色をひろう。

「ここがきれいだと思うのは、くすんだ空を知っているからだ。きらきらして見えるのは、暗い夜を知っているからだ」

 夜空に、黄色、白、赤色の点がぽつぽつと乗せられていく。乾ききらない紺色がにじんで、打たれた点が、見る間に暗く染まっていく。

「ぼくは、この世界の色の一部でしかないから、……」

 少年は、先の言葉をのみこんでしまった。唇を真一文字に引き結び、キャンバスをにらみつける少年の瞳に、悔しさとかもどかしさとか、はがゆさとか、いらだちだとか、そんなさまざまなものが浮かんでは消え、にじんではとけていった。

「ふむ、ひとつわかったことがある」

 それまで沈黙していたシルクハットが、まじめな顔を少年に向けた。

「君がつまらないんだな」
「さっきからそう言ってるじゃないか」
「そうじゃない。この世界がつまらないんじゃない、君自身がつまらないやつだと言ってるんだ」

 少年は、強張った表情のなかですこしだけ目を見ひらいた。顔をゆがめて、シルクハットをにらみつける。

 シルクハットは、臆することなく続けた。

「だってそうだろう。きれいなものをきれいだと思えないなんて、世界がつまらないからただつまらない気持ちでいるなんて、そんなつまらんことはない。私の兄を見たまえ」

 突然矛先を向けられたキャスケットは、きょとんとしたまま、なんだ、と言った。

「兄さん。腹がへったらどうする」
「食う」
「食べものがなかったら」
「さがして、食う」
「それがまずかったら、どうする」
「うまいものをさがして、食う」
「ほらごらん」

 シルクハットは少年に向き直った。

「私の兄は、こうだ。君は、どうだ」

 少年がうつむく。握りしめた絵筆が、ふるふると静かにふるえた。

 たしかに、そう。
 シルクハットのそれは、正論に違いない、けれど。

 みかこは、パレットに乗った白色の絵の具を、指先でちょんとつついた。ひとさし指にくっついたそれを、すっかり乾いた夜空の上で、横に、横に、動かしてみる。筆よりも濃く、でも不思議と色が絶えることはなく、白い線がいくつも伸びていく。

「ながれ星みたい」

 少女が声をはずませる。みかこはただ、ふふ、と笑った。

 今度は、パレットの上で緑と白をまぜあわせて、クリームみたいな薄緑色をつくった。キャンバスの下のほうに、好きに、気ままに、縦の曲線をえがいていく。

「夜がすきなの?」
「わかんない。じっさいに見たことがないから」

 少年は、みかこの指がえがくものを食いいるように見つめたまま、ほとんど無意識みたいな口調で答えた。

「見たことないの?」
「うん」
「夜がないんだ、ここは。ずうっとこうだ」

 キャスケットが指さした空は、一点のくもりもないかわりに、太陽の姿もどこにも見えなかった。このとき初めてそれに気づいたみかこは、なんとなく、なんとなくだけれど、少年の言う「つまんないの意味」を知ったような気がした。

 みかこは息吹きはじめたキャンバスを眺めたあと、青と白をすくってまぜあわせた。

「雨はふるの」
「雨もふらない」
「じゃあ嵐もこないのね」
「うん、こない」
「あの川も、森も、空も、ずうっときれいなままなのね」

 少年の返答はなかった。みかこは、つくったばかりの水色を、夜空と草むらの間に、横向きにすべらせていく。

「私、あなたの絵、すき」

 少年は、やっぱりなにも言わなかった。けれど不意に、絵筆をぽいっと草むらに投げ捨てた。ちいさな指先に青い絵の具をちょんとつけて、みかこの引いた水色の上に横筋を描き足していく。

 それを見守りながら、みかこは、ぽつりとひとりごちた。

「何色かしら」
「青だよ。見てわからないの」

 少年は、今度こそ本当に馬鹿を見るみたいな目をみかこに向けた。みかこは思わず、ぷ、とふきだす。

「違うの。そうじゃなくて。ぼくはこの世界の色の一部――って、さっき言ってたでしょう。そうだとしたら、何色になるんだろうって思って」
「ああ、そういうこと」

 納得したとたん、少年の関心はキャンバスへと戻っていった。みかこもまた、彼の指の動きを見守った。

「透明じゃなくて、ちゃんと自分に色があること、知ってるのね」
「……透明かもしれないよ」
「そうかしら」
「知らないよ。ぼくにだってわからない。だからきみに、そうとも違うとも言えるはずないってことだよ」

 少年の声がとげとげしだした。口がへの字になった。
 けれどみかこはひるむことなく、むしろ、いたずらをしかける子供のように肩をすくめて、

「言えるの、じつは」

 と、笑んでみせた。少年の瞳がついっと動く。

 みかこは川に視線をやって、そこに、流れてしまったのか沈んでしまったのかわからない、あのごうごうした少年の絵をうつす。

「透明なひとには、きっと、あの絵は描けない。それにね」

 みかこは少年に瞳を戻して、また笑んだ。

「どう見たって、透明人間には見えないもの」

 少年は、ぽかんと口を開け、キャンバスから指を離してみかこを見た。

「違いない」

 そう言ってシルクハットが笑いだした。つられるように、少女も、うふふ、と肩を揺らした。

 少年は、みかこたちをぐるりと見回してから、口を引き結んで、黒い瞳をキャンバスに戻した。

 そこに描かれた不自然な世界。夜ににじんだ星が飾り、真昼に見るような若草が飾り、そして、夜空を映す水面とは思えない、陰影のついた水色の川が、その間を一直線に流れている。なにもかも、ちぐはぐ。けれどみかこは、とても満足のいった顔で、その絵を眺めた。少年も、眺めた。

「へんな絵だ、さっきより」

 キャスケットがそうつぶやいても、少年は怒らなかった。無言のままパレットから黄色をひろって、左の草むらに塗りこみはじめる。

 みかこは立ち上がった。ポケットを探り、たたんだ葉っぱを取りだした。赤い実を一粒つまんで、少年の横に、キリカブに乗ったおしりの隣に置いておく。

 ネコの兄弟たちと、その場を離れようとしたときだった。

「また来てもいいよ」

 ひとりごとのように、ぶっきらぼうに少年が言った。

 みかこはちいさく笑った。それから、キャンバスの中の夜のような初夏のような風景と、黄色いまるが草むらのはじに集まっているのを眺めて、ふたりのネコと少女と一緒に、川下に向かって歩きだした。


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