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トガノイバラ #22 -2 神の矢…7…

◇  ◆  ◇  ◆


 ――ここの空気はどうしてこんなに重たいのだろう。

 まるで深い海の底。
 纏わりつく澱んだ空気が、口をふさぎ、喉をふさぎ、肺の中で滞る。

 体が熱くてたまらない。
 喉がかわいて仕方がない。

 あれからどのくらい経ったのか。離れと呼ばれるこの場所に閉じこめられてから、いったい、どのくらい――。

 壁に寄りかかることでかろうじて座っていられる。琉里は、じっとりと汗ばむ額に手をやりながら首をめぐらせた。うまく力が入らない。こてんと、壊れた人形のように顔が傾く。

 池に浮かぶ木造の六角形のこの堂は、四畳程度の広さしかない。

 古い板張りの床はろくに手入れもされていないらしく、身じろいだだけでも軋みを上げるし、なにかで引っ掻いたような傷跡もそこかしこにある。
 手をつくたびに、動くたびに、手のひらや露出した足がささくれに擦れて痛かった。

 出入口は一つだけ。こちらも古い木戸である。
 きっちりと閉め切られていて一筋の光さえ入ってこない。

 窓はあるようだが外側から塞がれていて、堂内は薄暗かった。
 木戸の横に設えられた、時代遅れの置き行燈だけがほのかな灯りをともしている。

 ――どうしてここに閉じこめられているのか、わからない。
 なぜあの家に近づくことができなかったのかも、わからない。

 伊明の手を拒んだのはなぜなのか、それも、わからない。

 あのとき感じたのは漠然とした恐怖だった。
 本能的ななにかが、伊明に触れられることを怖れ、あの家に近づくことに慄いた。

 どうして恐怖なんて。兄妹なのに。双子なのに。
 この家に来たのだって初めてなのに。

 朦朧とした意識のなかで、答えのない疑問ばかりが泡のように浮かんでは消える。とめどなく移ろっていく。

 伊明はどうしているだろう。実那伊という人には会えたのか。

 喉が渇いてたまらない。苦しくって仕方がない。
 琉里は静かに、目を閉じた。


 ――なにか、聞こえる。音が聴こえる。森のささやきのような、小鳥のさえずりのような、優しい音。

 音。
 音とは違う。
 これは――歌、だ。

 不思議な感覚だった。

 美しい旋律が、優しい声が、血をめぐるように体中を流れていく。
 鼓膜ではなく体の裡から――いや、それよりももっと深いところから――琉里を満たし、包んでいく。

 これはどこの国の言葉だろう。日本語じゃない。英語でもない。わからない。わからないのに、この歌を、知っている。

 琉里の唇が小さくふるえた。音をたどる。優しい旋律を追いかけ、なぞる。そうしていると鉛のように重たい体が、砂のように渇いた体が、少しだけ、軽くなるような気がした。

「――なんのおうた……?」

 ふいに耳に飛びこんできた声に、琉里はまぶたを持ちあげた。

 閉め切られていたはずの木戸が少しだけ開いている。
 その隙間から誰かが覗いている。子供、だろうか。ずいぶん低い位置に頭がある。顔は、よく見えなかった。

「……だれ……?」

 返事をしない代わりに、その子は、周りを確かめるように左右に頭を振り、少しの躊躇を見せてから、がた、がた、とぎこちない音を立てて木戸を開けた。

 子供一人がようやく通り抜けられるだけの隙間を作ってそろりと中に入ってくる。そしてまた、がた、がた、と――たぶん建付けが悪いのだろう――音を立てて、きっちりと木戸を閉め直す。

 琉里はただぼんやりと眺めていた。幻影でも見るように。

 するとその子供も、なにか不思議なものを見るような顔つきで琉里を眺め返してきた。

 この暗がりに目が慣れているせいもある、その子が足元の行燈にやわく照らされているからでもある、ふたたび外から遮断された空間で、琉里の目にはその子の姿がはっきりと映った。

 五、六歳くらいの女の子だ。

 細い目の中に黒々と輝く大きな瞳が印象的で、子供らしくない、すでに完成されたような美しい顔立ちをした――意匠を凝らした人形みたいな少女だった。

 薄闇のなかで、桜色の振袖が、ほのりと浮かぶ淡い光のように見える。

 少女は木戸の前に立ったまま、話しかけるでもなく近づくでもなく、ただじっとこちらを窺っている。

「……きれいな着物だね」

 声を掛けてみると、少女はちょっと身じろいだ。

「ここの子……?」

 少女がこくんと頷く。

「お名前は、なんていうの?」

 ゆめ、と小さな声が返ってきた。

「……ゆめ、ちゃん?」

「ゆめい」

「ゆめいちゃん」

 少女がまた、こく、と頷く。

「名前も、かわいい」

「……」

 笑いこそしなかったけれど、少女の頬に嬉しそうな朱が差した。
 うつむきがちに瞳をそらし、胸のあたりで手をもじもじさせながら、今度は少女のほうから口をひらく。

「さっきのおうた……なんのおうた? きれいだった」

「……なんの、かな。わからないんだ、私にも」

「わからないの?」

「うん」

「わからないのに、うたってたの?」

「うん。なんでだろうね」

 琉里が力なく笑ってみせると、少女はいっそう不思議そうに琉里を眺める。

「おねえちゃん、ほんもの?」

「……なぁに?」

「ほんものの、ギルワー・・・・?」

「ぎる、わー……?」

 なんのことだろうと瞬いていると、少女はごそごそと袂を探って小さな巾着袋を取りだした。

 中からつまみだしたのは、一本の銀色の針。

 刺繍針だろうか。
 普通の縫い針よりも少しだけ太く、少しだけ長い。

 少女は、おもむろに自分の人差し指の先を、針でつついた。

「……ゆめい、ちゃん……?」

 少女がおそるおそる近づいてくる。
 人差し指を、琉里に向けて。小さな血のふくらみを見せつけるみたいにして。

 どくん、と心臓が脈打った。

 ――ああ、だめだ。これは、だめ。

 鼓動が激しくなっていく。
 心臓からだくだくと送りだされる血液が、片っ端から蒸発して失くなっていくみたいだった。

 喉が渇く。
 体が渇く。

 果実のような紅い粒が、欲しくて欲しくて堪らなくなる。

 あのときと同じだ。

 伊明の血を、見たときと。

 手を伸ばす。あたたかな手に、指が触れる。
 頭の芯をしびれさせる濃密な甘い匂いが、狭く暗い堂内にふあんと広がる。

 少女が怯えたように息をのんだ。小さな手が引っこめられる。

 追いかけようとさらに手を伸ばそうとした、そのときだった。

由芽伊ゆめい様!」

 ガタガタガタッと――外れんばかりの音を立て、木戸が勢いよく開け放たれた。

 堂内がぱっと明るくなった。とはいえ、ぶあつい雨雲に隔てられた夕闇である。木戸から差し込んでくる光には目を射るほどの明度はない。

 なのにそれは、やけに強烈なまばゆさでもって琉里の目を焼いた。
 琉里は、火に慄くけもののように、小さな悲鳴をあげ顔を覆った。バランスをくずして倒れこむ。

「いったい――なにをなさっているのです、由芽伊様」

「はりま」

 男の怒っている声がする。少女の戸惑う声がする。

「ここに近づいてはならないと、あれほど言ったではありませんか。私の名を使って見張りの者に嘘までついて、中にまで入って」

「だって、ゆめ、ほんもののギルワー見てみたくて。見たことないから」

「……この指はどうなさったのです。まさか――」

「ちがう、ちがうの。ゆめが自分でしたの。針で。シンルーのこどもはこうやって練習するって、兄さまが」

「識伊様が……。――いずれにせよ、由芽伊様には早すぎます。ここは危険ですから、ともかく外へ。……あれに、血は与えておられませんね?」

「まだ」

「結構です。――由芽伊様をお部屋へ。指を怪我されている、手当を頼む」

 はい、と別の声がして、二つの足音が遠ざかっていく。
 琉里は床に突っ伏したままそれを聞いていた。

 残光がまぶたの裏でちかちかしている。体の渇きも喉の渇きもひどいままだ。心臓が脈打つたびに血が消える。

 このままでは死んでしまう。

 ――ほしい。
 ――この渇きを癒すものが、命を繋ぎとめるものが。

 ――ほしい。

 片手が縋るように床をさまよう。床を掻く。

 ゴツ、とすぐ近くで足音が聞こえた。
 前髪を掴まれ、顔を上げさせられた。振りほどこうとした手が容赦なく振り払われる。

「目を開けろ」

 逆らうことの許されない、無慈悲な声だった。
 琉里は薄くまぶたをひらいた。
 四角い輪郭をもつ男の顔が、すぐ目の前にあった。まぶしくて、よく見えない。

 男は琉里の瞳を覗きこむようにしてから手を離した。
 足音が離れていき、もそもそとした話し声が聞こえた。またひとつ、足音が近づいてくる。ゴト、と傍になにかが置かれた。

 木戸が閉められた。
 ふたたび閉ざされた堂内に静寂が戻る。

 琉里は、動けなかった。目も開けられず、声も出せなかった。
 床に伏せたまま、ただ静かにふるえていた。

「――……伊明……」

 兄を呼ぶ声は、ほとんど音にならなかった。

 ――伊明。
 ――私、やっぱり普通じゃない。

 つむった目から涙が落ちる。

 どこかで、小鳥が、鳴いている。



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