トガノイバラ #6 -1 血の目醒め…5…
父の手が足から離れ、肩から離れる。
ふつりと切れた緊張の糸。どっと押し寄せてくる疲労の波に浚われて、伊明は膝からくずれるようにその場にしゃがみこんでしまった。
「くっそ……」
息が上がっている。
ふきだした汗が額を、頬を、とめどなく流れ落ちていく。
「先月だったか――前回のほうがまだましだったな。どんどん動きが鈍くなってるぞ、伊明」
「わかってるよ、うるせーな」
「怠けるからだ」
「うるせーってば」
Tシャツで汗を拭う。
父を窺ってみると、呼吸はいたって落ち着いている。額に滲んだ汗を手の甲で拭き、相変わらずの涼しい顔で袖のボタンを外して肘まで捲りあげていく。
――今ソレかよ、クソ親父。
伊明は心のなかで悪態をついた。
腹立たしいことに、父はぴちりとしたベストに長袖のワイシャツという動きにくい服装で伊明の相手をつとめていたのだ。にもかかわらず、手も足も出なかった。悔しいどころではない。
睨むように父を見やっていた伊明の瞳が、ふと、露わになった左腕に留まった。
甲側の手首から肘にかけて、父の腕には、幾筋もの傷痕が刻まれている。縦に刃を入れたような深いものが、いくつも、いくつも。
その所以を伊明は知らない。
聞いたところで返ってくるのは「昔ちょっとな」のみである。
伊明は父から視線を外した。
「っていうか――」
まだまだ小言を重ねてきそうな父に、先手を打つ。
「手合わせの相手なんて、あんたと琉里しかいないだろ。二人とも忙しくてそれどころじゃねーじゃん」
「……俺はともかく、忙しかろうが暇だろうが琉里は駄目だ」
「昔はやらせてたくせに」
「昔は昔、今は今だ」
なんだよそれ、と伊明は口の中で呟いた。
琉里も父のしごきを受けて育ったが――そもそも彼女は、今でこそあんなに元気だけれど、小さいころはすぐに寝込んでしまう虚弱体質だった。
父の稽古が始まったのは、それを抜けだした小学校中学年くらいからである。それでもやはり伊生の娘、伊明の妹、なかなかにスジがよく、あっというまに上達していった。
先輩風を吹かせていた伊明が手心を加える余裕をなくしたのも、中学に入ってすぐのことである。
高校に上がって以降は、二人の手合わせは父によって全面的に禁止されている。たとえどんなに軽いものであっても、だ。
琉里はそれに不満たらたらで、いまでも時々、内緒でやろうよとせがんでくることがある。けれど、体格差もあるし童顔だし女だし、と気の引ける要素も多分にあるので、父の命令を体のいい断り文句に利用している。
ついでに。
「練習しようがねーだろ、相手いないんじゃ」
こんなふうにおさぼりの言い訳にも使っているわけだが。
「型も教えてるし、体作りくらいなら一人でもできるだろう。お前が片時も離さない携帯電話で検索のひとつもしてみれば、方法はごまんと出てくるんじゃないのか」
ド正論。ぐうの音も出ない。
「もしどうしても相手が必要だというのなら、俺が時間を作ってやるが」
「……父さんは嫌だ」
「だろうと思った。なら遠野にでも頼め」
「遠野先生はもっと嫌だ。あの人ガチで殴りに来るから」
手加減なしで、顔面を――だ。
「ああ、まあ……あいつの土台は喧嘩だからな」
さすが、この父の竹馬の友というべきか。遠野も腕っぷしにはかなり覚えのあるタイプである。
ただ父の言うとおり、彼の場合は武術というより暴力なのだ。父や琉里との手合わせなら成立する拳のキャッチボールが、遠野が相手だとメリケンサックの豪速ドッジボールみたいになってしまう。
「まあいずれにせよ、だ。鍛錬を怠るな、伊明。いいな」
念を押すようにそう締めて、伊生は「戻るぞ」と伊明を促した。立ち上がるのも待たずにさっさと歩きだす。
――この人は、いったい息子になにを求めているのだろうか。
普通の親が気にするようなこと、たとえば成績の良し悪しだとか進路だとか、そういったことには一切口を出さないくせに、定期健診にはやたら厳しく、口をひらけば鍛錬鍛錬、また鍛錬だ。
「……なんなんだよ」
駐車場から出ていく背中を睨みつけ、顎に滴る汗を拭ってから伊明はようやく立ち上がった。
院内に戻ると診察を終えたらしい琉里が待っていた。先に戻ったはずの父の姿はすでになかった。
琉里によると、「どうだった、健診は」と伊明にしたのと同じ質問をし、一言二言、言葉を交わして、遠野と奥に引っ込んでいったという。
「先に帰ってろって。待ってるって言ったんだけど」
琉里はどこか寂しそうだが、伊明にとってはありがたかった。柳瀬の笑顔に見送られ、伊明は、琉里とともに診療所をあとにした。
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