僕のねこ、夏 #8 僕のねこ、夏【最終話】


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 それから間もなくして夏が死んだ。

 大粒の雨がざあざあばちばちと、地面を、窓を、遠慮容赦なく叩き続けていた夜のことである。

 そうなる二日ほど前から、夏はなんだか変だった。元気がなかった。散歩にも行かなかった。飯は食ったが、残し、吐いた。

 僕はおかしいと思ったのだ。思ったのだけれど、あの動物病院なる異空間と、獣医にいじくりまわされて大きな声で鳴く夏の姿が頭をよぎって、どうしても腰が上がらなかった。

 いよいよ飯に見向きもしなくなった雨の夜、僕は、僕のふとんの上でただただ目を閉じている夏を見て、さすがに翌朝一番に病院に連れていくべきだと考えた。

 僕がパソコンに向かっていると、いつのまにか夏がいなくなっていた。

 妙な胸騒ぎを覚え、夏を探した。

 夏は、台所のすみにいた。

 豆電球の明かりさえない、冬の冷たさにひたされたほこりだらけの床の上で、夏は四肢を投げ出して横たわっていた。

 僕は茫然とした。それから、夏、と声をかけた。自分のものとは思えぬほど、細くて高い声が出た。夏は動かなかった。

 眠っているのだ、きっと眠っているのだと、必死に自分に言い聞かせた。膝がふるえるのを自覚した。夏に近づいて、もう一度、おい夏、と呼んだ。夏は、動かなかった。

 気が動転した。地面がぐらぐらと揺れるような、周りがぐにゃぐにゃとゆがむような、あるいは僕自身がそうなってしまっているような気持ちの悪い感覚に襲われた。

 僕は夏を抱き上げた。夏は僕にしがみつかなかった。白いつま先をぶらんと垂らすだけだった。

 僕はそのことにまた動転して、今度は夏を寝かせようとした。弛緩しきったちいさな体がぐにゃと曲がった。今までと違う感覚にますます混乱して、怖くなって、寝かせようとした夏をもう一度抱き上げた。

 そこで初めて、夏の顔を見た。

 まだあたたかかった夏は、けれど息をしていなかった。目も口も不自然にひらいたまま、僕の腕に沈んでいた。

 僕は夏を抱いて、しばらくの間、台所をうろうろした。それから、はっと思い立って家を飛びだした。飯塚に助けを求めたのである。

 真夜中だということも忘れて、僕は飯塚の家のインターフォンを二、三度鳴らした。応答がなかったので、もう一度鳴らした。飯塚ならなんとかしてくれる、僕と僕のねこを助けてほしい、その一心だけだった。

 あっという間にびしょ濡れになった。冷気が肌を突き刺した。

 けれど僕にとっては、雨が体を叩こうが、風が皮膚をちぎろうが、そんなこと、どうでもよかった。ただ、腕の中のぬくもりだけはきっと奪われてはならないのだと、必死に、必死に夏をぎゅうと抱いた。

 何度目かに小さなボタンを押したとき、ようやく、それを遮るように飯塚の不機嫌な声が流れた。

「夏が死にました」

 僕は名乗ることもせずにそれだけ言った。

 驚いたような声が聞こえてすぐ、奥の窓から明かりがこぼれた。続いて玄関の明かりが点き、寝ぐせのついた髪に白い肌着とトランクス一枚という不格好な飯塚が飛びだしてきた。

 飯塚は、僕を見て、夏を見て、苦しそうに顔をゆがめた。

「はいりなさい、とりあえず。今、家内が動物病院の救急センターに電話しているから」

 玄関には、すでに子機を持った奥方が待機していた。変わりますわ、とかたい声で電話口に告げた奥方は、そのまま僕に受話器を差し出してきた。

 僕は馬鹿みたいにおろおろした。夏を抱いているから電話に出られないと思ったのだが、それを伝えられなくて困惑した。

 すると飯塚が、僕から夏を取り上げた。かわりに受話器を握らされた。

 電話で男性との短い問答があったのだけれど、僕はその内容をほとんど覚えていない。夏が死んでしまったことを、ただただ、繰り返していたような気がする。僕がそんなだったからか、途中で奥方に受話器を取り上げられた。

 僕は立ち尽したまま、彼女の声を聞いていた。

 突然、肩を揺さぶられた。

「おい、聞いているか」

 僕は飯塚を見た。

「今から行けば、できるかぎりの処置をしてくれるそうだ。どうする」

 僕は、奥方の手の中にある受話器を見た。

「ここからは車を飛ばしても二十分はかかるぞ」
「行くのなら急いだほうがいいわ」

 僕は夏を見た。とたんにすさまじい焦燥に駆られた。
 今まで味わったことのない、胸の奥から心臓を焼かれるようなその激しい感情に任せて、行きます、と答えた。

 飯塚と奥方がばたばたと準備を始めた。ラッキーとクッキーの吠える声が、家の奥から聞こえてきた。

 僕はふたたび、腕の中に戻ってきた夏を見つめた。じっと見つめた。
 脳裡に、病院で鳴いていた夏の姿がよみがえった。
 焼けこげる心臓が、ぎゅっと握りつぶされる思いがした。

「よし、行こう」

 黒いジャージ姿の飯塚に背中を押された。僕は動かなかった。

「やめます」
「え?」
「やめます。夏は、病院が、嫌いです」

 僕はなんとかそれだけ言って、深く頭を下げた。涙がこぼれた。

 飯塚は押し黙った。それから、僕の背中を優しくたたいた。飯塚の手から伝わってくるあたたかさに、僕は嗚咽をもらし、子供のように泣きじゃくった。


 その夜は、飯塚の家で過ごした。そうするよう勧めてきたのは、意外にも奥方だった。
 この夜の奥方は、まるで能面でもかぶっているみたいに青白い顔をぴくりとも動かさず、始終、顔を強張らせていた。

 もしこのとき、彼女特有のあの笑みがすこしでも浮かんでいたなら、僕は意地でも夏の亡骸と一緒に家に帰っていただろう。

 濡れた体を拭いて、飯塚が貸してくれたスウェットに着替えた。ぶかぶかだしよその匂いもしたけれど、気にはならなかった。僕のびしょ濡れの甚平と紺色のカーディガンは、奥方が洗い、乾かしてくれていた。

 飯塚は酒ではなく、温めたミルクを出してくれた。
 家出した子供でもあるまいにと思うのだが、泣き疲れていたこのときの僕は、それをとても大事に飲んだ。優しい味が体の中心からじんわりと広がり、あたためてくれたあの感覚を、僕は今でも覚えている。

 奥方はその間、夏の面倒を見てくれた。
 半開きになっていた目と口を閉じて、濡れた体を丁寧に拭いてくれていた。

 夏は本当に眠っているような姿になって、今度はクッキーのお古のかごにちょこんと収まった。

 白い二人掛けのソファーに、僕と夏が並んだ。

 僕はぼんやりと夏を眺めた。ただただ眺めた。
 そのときの僕の中には、不思議となにも出てこなかった。
 からっぽだった。からっぽのまま、夏を眺め続けた。

 飯塚も奥方も、なにも言わなかった。
 僕たちはそれぞれが静かに、リビングのソファーに腰かけていた。

 どのくらいそうしていたのかはわからない。
 不意に飯塚に声を掛けられて、僕はようやく我に返った。
 飯塚は、どうしたいかと尋ねてきた。
 なんの話かわからなかった僕は、今度は飯塚を眺めた。

「なつのことだ」
「夏は死にました」
「そうだな。なつは死んだ。君は、なつをどうしたい」

 僕はその意図をうまく掴めなかった。するとすぐに、そのあとを奥方が引き継いだ。

 ようするに、夏の亡骸をどうするのかということであった。
 確かにいつまでもこのままかごの中に入れておくわけにはいかない。僕は、無気力を見せる脳みそを叱咤して考えをめぐらせてみた。どうしてやるのが夏にとって一番いいのだろうか、と。

 けれどもあいにく、僕は選べるだけの選択肢を持っていなかった。

「どうしたら」
「どうしたい」

 呟いた僕に、飯塚は繰り返した。いつも明確な解答を用意して順を追って導いてくれる飯塚にしては、めずらしいことだった。

 僕は考えこんで、気づいた。
 飯塚が聞いているのは、僕自身が夏をどうしたいかということなのである。

 僕はできるかぎりのことをしてやりたいと思った。脳みそが働きだすにつれて、からっぽだった僕を重苦しい後悔と自責の念が支配しはじめたからだ。結局のところ、僕は、死にかけていた夏をほったらかしにしたのだ。死んでから、ただあわあわと慌てふためいただけなのである。

 そんな僕に、飯塚は、霊園への埋葬を提案した。今は、動物も人間と同じように棺に入れて葬儀に出し、火葬をし、埋骨して、場合によっては墓を建てることまでできるらしい。

 僕はそれを聞いて違和感を覚えた。
 夏は夏だが、猫なのだ。僕のねこなのだ。

 けれどもほかにどうしていいのかもわからなかった。

 飯塚も奥方も、じっと僕の答えを待っていた。注がれる視線が、僕から落ち着きを奪った。思考が散らかった。

 僕は飯塚にことわりを入れて、一度、僕の家へと戻ることにした。


 僕の家は、飛びだしたときの状態そのままだった。
 廊下の奥、開け放たれた書斎から白い光が廊下に差しているだけで、家の中は暗かった。異様な静けさに満ちていた。僕は玄関につっ立って、変わり果てた僕の家を眺めた。

 それから廊下を進んで、居間に入った。

 閉めきっていた大きなガラス窓をからりと開けると、吹きこんでくる風にあおられた雨が、家の中に静かに入りこんできた。
 土砂降りだった雨はいつのまにかしっとりとした霧雨に変わっていて、濡れそぼった夜のにおいが僕をつつみこんだ。

 僕は狭くてちいさな庭に出た。中央に立ち、あたりをぐるりと見回した。三歩ほど進んで、夏がいつも乗り越えていた背の低い塀の前に立ち、そこから見える深夜の町並みを眺めた。

 しばらくそうしてから居間に戻ろうと踵を返したとき、僕は、あ、とちいさく声をこぼした。

 僕の顎先程度の高さの塀から、書斎に設えられた窓の向こうがよく見える。開きっぱなしのパソコン画面や、机に乗った使いかけのウェットティッシュや、敷きっぱなしのふとんの端や。

 僕はいつもあの窓に背を向けて、あのパソコンの前で岩のように固まって、指だけをかちゃかちゃと動かしているのだなと、どこか他人のようにその光景を目の前に映した。

 散歩から帰ってきた夏は、こんなふうに、いつも僕の後ろ頭を塀の上から見ていたのだろうか、どんな思いをいだきながら僕と暮らしていたのだろうかと、そんなことを考えた。

 僕は、夏をどうするか、決めた。

 飯塚の家に戻る前に、台所に立ち寄った。
 戸棚を開け、並んだ缶詰をかき分けて、奥のほうからちいさな紙袋をひとつ取った。購入してからずっとそのままにしていた、あの真夏の木の葉のような深緑色の首輪である。

 飯塚の家に戻った僕は、夏にそれをつけてやった。もちろん、僕の飼い猫としての証などではない。僕が僕のねこにできる唯一の贈りものだった。

「やっぱり、夏は緑が似合うなあ」

 飯塚の声がふるえた。僕はまた泣いた。飯塚も泣いた。ふたりで静かに泣いた。
 奥方は、夏をじっと見つめていた。


 翌日、丸一日かけて夏を庭に埋めた。
 僕の選択に対して奥方は眉をひそめたけれど、強く止められることはなかった。

 雨で濡れた黒い土の中で、薄茶色というか白っぽい茶色というか、そんな毛並をもつ、深緑色の首輪をした僕のねこは、とてもとてもきれいに見えた。

 後日、飯塚が贔屓にしているという庭師を紹介してもらって、夏の近くにナンテンを植えてもらった。

 本当はもっとしっかりとした樹木らしい庭木を植えてもらうつもりでいたのだが、僕の無精と庭の狭さを考えるとそれがいちばん適しているのだとの助言を受けた。僕は素直に、そういうものかと承諾した。

 こうして夏との共同生活は終わりを迎え、自由を愛する僕のねこは、晴れて自由の身になった。

 今、窓の向こうでは、ナンテンの赤い実と深緑の葉が風にそよいでちいさく揺れている。僕は、ふとしたときにこうして振り返って、それらが僕の後ろ頭を見つめていることを確認するようになった。新たな癖が増えたわけである。

 あれから街の用品店には行っていない。
 行く用事がなくなったからであるし、訃報を伝えるためだけに出向いてもまた彼女を困らせてしまうだけになりそうで気が引けた。

 もし今後、偶然が重なって、奇跡的に彼女とばったり会うことでもあったなら、僕は、以前の無礼を詫びるとともに僕なりに得た答えなるものを話してみようと考えている。

 僕にとって僕のねこは、やっぱり、僕のねこなのである。

 家族だとか、ペットだとか、どのくらい大切だったのかとか、それが他人と比べてどうだこうだとか、そんなことは関係なく、僕のねこなのである。

 ただ、それを伝えられる機会などめぐってこないだろうこともどこかでわかっているから、これが世に出た際に、それとなく彼女の目に触れでもしたらありがたいなんて、そんなふうに考えている。

 ちなみに飯塚と僕は、今でもばんともを続けている。

 赤ら顔で気まぐれに玄関先に現れる飯塚から、酒とつまみをありがたく頂戴して、コップをふたつ用意し、ハムを焼き、他愛もない話をして笑い合う。なんら変わりはないのだけれど、ひとつだけ増えたことがあった。

 飯塚と僕は、居間に腰を落ち着ける前に、かならず一度、狭くてちいさな庭に出る。ナンテンの根元にまぐろの切り身を置き、乾杯してから、いつもの晩酌に移るようになったのだ。

 初夏や秋の過ごしやすい時期には、ふたりして土の上にあぐらをかいて、そこで飲んだくれることもしばしばあった。上等なスーツが土まみれになろうとも、そのことで奥方のカミナリが落ちようとも、飯塚は一向に気にしていないようである。


 右前足の先っちょだけが白い僕のねこ、夏は、残念なことにもう僕のねこではなくなった。誰のねこでもない。

 それでも僕は、夏が今でもここにいて、ふらりと出かけてふらりと帰り、僕のふとんの上でまるまっているような、そんな気がしてならないのである。

    【了】


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