絶望か、あるいは
私の大学での専攻は幼児教育なのですが、その関係で、今年の前期は発達心理学の授業を受けています。これがなかなか面白くて。
発達心理学では、子どもの発達の順序を階段のように捉えます。おおよそ2歳でこれが分かるようになる、5歳ごろにはこのような考え方ができるようになる、といった具合です。それを見ていると、子どもたちの見ている世界というのは想像以上に解像度の低いものなのだと、驚かされます。
例えば2歳ごろの子どもは、自分の視点や考えが他者とは異なるということが、分からないのだそうです。自分と全く同じものが、ほかの人たちにも見えていると思い込んでいるのだそうです。
この話は、私にとってかなり衝撃的でした。
小さな子どもは自分中心に世界を捉えがちですが、これまで私は、それを「幼さゆえに自分のことが一番大切で、他者を優先する余裕がないから」だと考えていました。他者と視点が異なることはうっすら理解したうえで、それでも自分を優先してしまうのだと。違ったのです。
そもそも、見えている景色が全く違う。子どもが他人を優先しないのは、余裕云々の問題ではなく、「相手が違う考えを持っている」なんてことをまだ推測できる段階にないからなのです。
「しない」んじゃなくて「できない」のか、と。幼い子どもは、まだ大人と同じ解像度で世界を見ることができない。それゆえに、周りから見れば自分勝手に思える行動を、大真面目に取ってしまうのだと。
そのあどけなさを世間は「子どもっぽい」と表現しますが、この言葉はあまりいい意味では使われません。それは裏を返せば、大人たちが「子どもの身勝手さは本人の配慮で軽減されうるものだ」と思い込んでいるからなのかもしれません。
もう1つ。12歳を過ぎたころから、人は実際に起こっていない事柄にも論理を当てはめることができるようになるのだそうです。これが、中学生で突然xやyといった文字を含む計算が始まる理由です。正体の分からない文字に対して、その正体が分からないことは一旦置いておいて、それまでの計算の法則を適応することが出来るようになります。
教授が「発達には個人差があるので、中学生でもまだこの概念が理解できない子もいます」と話しているのを聞いて、私の頭には、ある女の子が浮かびました。
その子は数学が大の苦手で、特に計算式の中の「文字」という概念を理解できず、そこで立ち止まってしまいがちでした。私自身、xはxだとしか認識していなかったので、うまく納得のいく説明をしてあげられずにいました。「xは重さの分からない黒い箱で、これはその重さを求める問題だ」と、現実に落とし込むような説明をすると、納得してくれることが多くて。
あの子は、まだこれを理解する段階に達していなかったのだな、と思いました。理解できない概念に基づいた計算というのは、努力や練習でできるようになるものではありません。ですが自己肯定感のとっても低い彼女は、「みんなが分かっていることもまともに理解できない」と自分を責めてしまいがちでした。
「努力すれば成し遂げられる」という考えは、ある意味で呪いのようなものだな、と。裏を返せば、「成し遂げられないのはお前の頑張りが足りていないせいだ」になってしまうのですから。
あることに関して「自分はどれだけ頑張ったとしても『できない』ように作られている人間なのだ」と知ることは、ときに「自分は目標へはたどり着けない」という絶望であり、ときに「自分は努力不足というわけではなかったのだ」という救いでもあるのかな、と。
前半の話とも重なりますが、過度に期待するのではなく、「その人の限界」をきちんと把握して、ある種見切りをつけるということが、案外生きるためには必要なのかもしれません。
もし私の枕元で神様が「ふっふっふ、おまえには一生逆上がりのできない呪いをかけてやったぞ」とささやいたなら、小学校の体育の時間はいくぶん息がしやすかっただろうに、なんて。
そんな、考え事のお話でした。
ご覧いただき、ありがとうございました。
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