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とある朝と雨と深海の話


雨の音が聞こえる。

サアサア、カツカツ、トントン


目覚める。

天井。

灰色。


…長い間寝ていたようだ、ムクリと起き上がる。

リビングのソファーの上。背中が痛い。


サアサアと雨の音がする。部屋は薄暗く灰色、小さな窓から流れ込む透明がそこに差し込んている。

サアサアと雨の音がする。する。する。
…これだけ。
音は遮断され、くぐもった雨の音だけが続いている。閉ざされている。深海のなかみたい、または鯨のお腹のなかみたい。
…入ったことないけど。

ここは安全で、静かな部屋のなか。
何故か呼吸ができることを確かめていた。

頭が重い。長い間寝た時の、淀んだ、泥のような感覚が抜けない。どれくらい寝ていたんだろう。そういえば、昨日の晩御飯の記憶がない。

ソファーから立ち上がろうとする。足を床につける。裸足が床に触れ、ひんやりと、固い感触がある。足に力を入れ、体を持ち上げる。視界が広がる。
重い。体は空っぽなのに、脳に水が溜まっているような感覚。どこかフラフラとする。

ぺちぺちと、床を進む。まだ世界には雨と、私の音だけ。
部屋で1番大きな窓の分厚いカーテンを開ける。窓ガラスを開ける。その先はシャッター。世界とこの部屋とを遮断する分厚さに気づく。潜水艦の中だったか。

シャッターを開ける。
湿った風が流れ込む。

そこは、深海の中だった。

外の世界は薄暗い青色。灰色に濁った青色。
雨が空気を押しわけ、冷たく湿った空気が部屋に逃げ込んでくる。寒い。
朝の、青色の陰の中を、魚が泳いでいる。

いや、深海魚か。どれも薄暗い色で、見た目はグロテスク。ゆっくりと、水圧から逃れるような泳ぎ方。
あ、あれ知ってる。ラブカだ、目がギョロギョロ。でもどこも見ていない感じ。見えるのかな。

灰色の住宅街を、這うように進んでゆく深海魚たち。外の世界は、雨と、冷たい空気と、灰色と、多分水圧とで重く重く存在している。その密度が部屋の私を押してくる。

寒い。足先がかじかんできた。お腹も空いている。
空っぽな私は、窓を閉め、その密度を遮断した。
また静かな空っぽが戻ってくる。空洞。響くのは雨と私の音。

なんとなく朝ごはんを食べる。トーストとインスタントのコーヒーだけ。物足りないような気がするけれど、空っぽの私にはちょうどいい。
安っぽいコーヒーの味が、冷えた足先を温めた。
トーストを齧りながら窓の外を眺める。ガラスの先には、灰色の深海が相変わらず存在している。でも、先程の水圧はもうこない。ガラスが遮断してくれている。安全。

魚を眺めながら、朝食を片付けた。あっという間にトーストとコーヒーは私の中に消え、少しだけの空っぽが残った。

シャワーを浴びることにした。脱衣所も同じく薄暗い。服をどんどん脱ぎ捨てる。最後には、空腹でぺらりと薄いお腹をした私が鏡に写って残っていた。

お風呂場に入る。お風呂場はリビングよりももっと遮断され、音が響く。雨の音はカツカツとガラスを叩いている。床のタイルが冷たい。シャワーを出すと、シャワーの音が周囲の静けさと雨の音とを一気にかき消した。足元を温かいみずが流れていく。
全身をシャワーの流れの中に滑り込ませる。薄ら温かい水が全身を伝っていく。シャワーの音が上から雨のように降りかかる。

少し物足りないので、小さく歌を歌う。お気に入りの、深海散歩のうた。シャワーの音の間の小さな隙間を、私の下手くそな歌が申し訳なさそうに通っていく。

ガラスから流れ込む薄く青い透明がお風呂場を反射し、満たしている。そこに打ち込まれるシャワーの雫。
手を伸ばすと、水に濡れた指先が透明に光った。

シャワーから出て、適当な服に着替える。
廊下を歩く指先はひんやりとしている。首元を濡れた髪がかすめる。

もう一度リビングに戻り、ソファーに腰掛ける。体が吸い込まれるようにソファーが沈む。
正面には、さっき開けた窓が見える。やはり窓の外は深海。
そのままソファーに座り込み、しばらく外を眺めていた。時折髪の毛から雫が落ち、膝に跳ねる。私からの音が無くなった今、聞こえるのはくぐもった雨の音だけになった。

ぼんやり、ぼんやり。五感は冴えているのに、どこか夢の中にいるような感じがする。頭が重い。空っぽを抱きかかえるように体育座りになって縮こまる。
外の世界の密度と反対に、私の空っぽはどんどん広がっていく。




雨の音がする。

トントン、カチャカチャ、カツカツ

雨の音に混じって、生活の音がする。

目を開けると、薄暗い部屋にぽつり、台所だけに灯りが灯っていた。母が朝ごはんを作っている。コンロに火をつける音、果物を切る音。音だけで母が忙しなく料理をしていることがわかる。

母がこちらに気づき、のんびりとした声をかける。

「あんた昨日の夜からずっとそこで寝てたのよ、よく寝るわねぇ」

そうか、ずっとここで寝ていたのか。
立ち上がる。頭は重くない。
窓の外は、薄暗いただの住宅地が広がっている。



キッチンには食べ終わったお皿。髪の毛はパサパサとしている、けれど。

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