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小説『雑記帳』より。(2話①)

2話 タロットカードとシルバーグレイ①

次の日、学校の帰りに課題の本を新宿で探していたら、もうすっかり日が暮れてしまった。

まだ日が高いうちに帰って、鈴木さんが豆の焙煎の後の手箕を振うのを見たかったのに、これでは店を開ける準備にも間に合わない。

できれば、常連さんがまだ来ない時間、二人の時に鈴木さんに会いたかった。でも、私は駅の階段をどうしようか迷いながら走り降りていた。

人を好きになろうとも、お腹の空き具合だけは正直なのだ。

「お腹が空いた。でも、今日は鈴木さんに会いたい。だけどお腹は空いている。家に帰るべきか鈴木さんに会いに行くべきか。」

このまま雑記帳へ行っても、きっと鈴木さんは、私の頬と重ねたことをまるで無かったかのようにふるまうだろう。それはそうだ、他のお客さんもいるわけだから。
しかしそれでも、知らん顔している鈴木さんの顔でもいいから見たかった。

私はハンバーガーショップで一番安いハンバーガーを買って、その場で喉が詰まりそうな勢いで食べて、それから口をよくすすいで、口臭予防のガムをちょっとだけ噛んですぐ捨てた。口に手をあててハァっと息の匂いをかいで確認。

「よし。」

『雑記帳』の看板はもう夕暮れに飲み込まれかけている。中からは昨日壊されそうだったアールヌーヴォーのランプの光が見える。

窓の外から見える丸メガネにオールバックの鈴木さんが、昨日の前の日より素敵に見えた。柱に寄りかかり、腕組みをしている。

自分の心臓の音だけが聞こえるようだ。見回すとお客さんはまだ誰もいない。常連が来ていない?常連のお客さんたちとは仲良くなったけど、今日のこのタイミングは二人きりになりたい。私は木の扉を、なるべく平静を装って開けた。

「いらっしゃい。やぁ、素子ちゃん。学校の帰り?」

いつもと変わらない、にこやかな笑顔で出迎えてくれた。

「うん。学校の課題で使う本を新宿で探していたの。遅くなっちゃった。他の人たちはまだ来ないの?」

「そうだね。まだ誰も来ないね。」

私は鈴木さんの手作業が一番見える位置の席に座った。鈴木さんがコーヒーを入れるところ、お湯を沸かしたり、洗い物をしたりする手を見るのがとても好きだ。普通な所作のはずなのに、まるでお抹茶を点てる先生みたいにスマートで芸術的なのだ。

「何にする?」

鈴木さんは(いつものだって決まっているだろうけど、一応聞いておく)という感じで聞いてきた。

「エスプレッソ。」

私がそう言うと、鈴木さんは無言でちらりと横眼で私を見た。

「嘘、いつものカプチーノ。」

私が横を向いて言うと、鈴木さんはにっこりして「了解」と言った。初めて知らずにエスプレッソを頼んで、その苦さに水をゴクゴク飲んでいたという十七歳の頃の私を思い出すのか、鈴木さんはあれから私にエスプレッソは勧めない。
小さなエスプレッソカップなのに、半口飲んで後は残してしまったのだから、それは確かに勧めないだろう。

大人になったら飲む。社会人になったら飲むぞと私としては思っているのだけど、では社会人になったら大人なのか、エスプレッソが似合う大人になれてしまうのか、というのは学生十九歳の私には未知数だった。

鈴木さんがマシンに豆をセットしてエスプレッソを入れると、コーヒーの香りがうわっと広がった。続いて鈴木さんは牛乳を温めて泡立て、そっとカップに注いだ。カップの横にはシナモンスティック。
カップは私が来るといつも果物柄のカップだ。確か、ジノリとかいうブランドのもので、とても高価だと常連の人は言っていた。私は両手に大事に温度を確かめるみたいに持って、少しずつ唇をつけた。ちらっと上目使いに鈴木さんを見てみる。

「そうだ、実はね新しいメニューを考えているんだ。試食してみない?」

鈴木さんが意外なことを言いだした。新メニュー自体が珍しいのに、他の常連さんじゃなくて、私に言ってくれるのが一瞬奇跡のように感じた。いや、もしかして、その試食は私だけに限ってないかもしれない。例えそれでも嬉しい。

「うん。試食したい。どういうの?」

鈴木さんは説明しようとして口を開きかけたが、やめてしまった。お楽しみというところなのだろう。鈴木さんが慎重な面持ちで、まるで化学の実験をするみたいに作って、私の前にスッと差し出した。
「これは・・・・。」

出てきたのは、小さなカップに入ったアイスとコーヒーゼリーみたいなものだった。作っている間中、全然何を作っているのか分からなかった。そもそも私は料理はおろか、女子らしいお菓子作りとかもしたことがないから、鈴木さんが何を入れて何を混ぜているのかも分からない。分かるのは、アイスのカップとゼラチンと書いてある箱。

「アイスの冷たさで、ゼラチン入りの珈琲が緩く固まるってことね。ね、そうでしょ?」

私は市販のコーヒーゼリーにゼラチンと表示されているのを思い出した。

「その通り。コーヒーゼリーの固さとか、アイスの分量との比率はどう感じる?」

私は鈴木さんって面白いなってよく思う。試食って言ったら、たぶん一番初めに聞くのは美味しいかどうかだと思うからだ。「どう感じるか」とはあまり聞かない気がする。

「アイスがちょっと多い感じがする。それから、アイスとコーヒーゼリーと、あと何かが欲しい。アクセント的な?そこはよく分からないのだけど。あと、これならお客さんの目の前でゼリーをかけて、固まるのを待ちながら時間をかけて食べてもらうというのもアリかな?」

私が(自分ってなかなかいいコメント言うじゃん)と思いながら言うと、鈴木さんは手を顎にあてて頷いて考えているようだ。
その考えている姿も、なんていうかアーティスティックなのだ。このアールヌーヴォーのランプの光の『雑記帳』と融合して、その一部になっているように見える。私はその一挙手一投足を絵画か彫像を眺めるみたいにうっとりと見ていた。

「いいね、そのアイデアは頂戴しておこう。」

私はまた嬉しくなった。上機嫌でアイスを食べていると、入り口の扉が開いた。常連の誰かと振り向くと、全く知らない人だった。もちろんここは常連ばかりがくるわけではないから、特別なことではないが。

「どうぞ。」

鈴木さんはカウンター席を手のひらで示した。
お客さんは私が卒業した高校の女生徒の制服を着ていた。ついこの前まで着ていたものがすごく懐かしいように感じる。しかしこの女生徒は髪は長くボサボサで、外は嵐でも吹いているのかと思うようだった。

「アメリカン。」

彼女はメニューを見ずに言った。そして、黒い学生鞄の中から一束のカードを取り出した。狭い幅のカウンターの上で、それを器用にシャッフルしている。

「それは何?」

鈴木さんが女子高生に話しかけた。

「タロットカード。」

彼女は低い愛想のない声でボソッと言った。手のカードはシャッフルした後、まるで優等生ばかりの生徒が整列するように彼女の手にきちんと揃っておさまった。そして、三つの束に分けてカウンターの上に並べた。
「ねぇ、この三つの山のうち、一つだけ選んで。」

彼女は私に話しかけてきた。わざと視線は外しておいたはずなのに、なぜ私に話しかけるのだろう。例え卒業校の制服を着ているからといって、正直初対面で話しかけられるのは苦手だ。私が浅くため息をつくと、

「素子ちゃん、選んであげなよ。」

鈴木さんが言うので「じゃあ、右端」と、抑揚の無い感じで選んで答えた。
彼女は口元だけで引きつったように笑うと、その選んだ束だけをカウンターに並べだした。彼女は顔の作りは可愛い感じなのに、笑顔はまるで造り物の人形みたいで不自然だった。

「何かを占ってくれているの?」

私が試しに話しかけたが、彼女は答えなかった。鈴木さんの手前、せっかく話しかけてあげたのに。彼女はそのタロットカードを並べた後、しばらく見つめながら黙ってしまった。
心なしか、彼女の周囲数センチに光が浮いているように見えた。

「ふーん。」

彼女が私を見て、またニヤリと笑いながら二枚のカードを取り上げてヒラヒラと振った。

「お姉さん、頑張っていそうなのは分かるんだけど。」

彼女は私と視線を合わせず、堪えきれないかのように下を向いて微かに笑っている。

「まぁ、たいがいにしたほうが。人生長生きできると思うよ。相手のバックグラウンドをちゃんと見ないと。今のままだと、昔の人の表現で言えば、畳の上で死ねないみたいな?」

とだけ言った。
一応私は年上なのに、タメ口かよと思った。私はそのタロットカードの絵が、〈悪魔〉と〈人が塔から落ちる絵〉だったことから、彼女が察した概要の想像ができた。
私にだってタロットカードの意味の少しぐらいは、知識がないわけではない。カード一枚一枚に意味があり、それが組み合わさることでより複雑な占い結果を得られるのだ。

彼女が見せたその組み合わせは、肉体的な恋愛とドロドロの泥沼な転落を示している。さらにそこから詳しい結果を得るためには、愛着のあるカードと、カードが言いたいことを読み取る力が必要なはずだ。彼女がその結果を詳しく解説できるのか、私の状況を占い見透かすことができるのかは分からない。ただ、どのみち口に出して欲しいような良い結果ではない。
まして、鈴木さんの前では。

「そうだね。」

私は少し不快そうに、言葉短めに答えた。彼女は私の返事に満足したのか、今度は

「マスターを占ってもいい?」

と聞いた。あれ?私には占っていいかと聞かなかった。失礼なやつだと今更思った。でも彼女の視野から私はすでに外れていた。

「いいよ。占ってみて。」

心の中で、安請け合いした鈴木さんに「やめときなよ」と言いたかった。しかし彼女はすでにまたシャッフルして三つの山を築き、鈴木さんに「どれにする」と聞いていた。
鈴木さんはカードの山を指定して、彼女はまたそのカードを並べ始めたが、今度はあのオーラのようなものが見えなかった。作り笑いのような笑顔もない。

「あれ・・・。」

一枚一枚のカードを調べるように手に取るものの、彼女は大事なものを無くして慌てているような顔をしている。

「わからない。マスターのカードからは、何も読み取れない。今もこれからのことも、カードは何も語らない。なぜ?」

彼女はちょっと焦っている。きっと本当は占いの腕を自信を持ってここへ来たのだろう。あのニヤリとした笑顔は、彼女の余裕の成功の笑顔だったのだ。
私はちらりと横眼でカウンターに置かれたカードを見た。奇妙な組み合わせであることは確かだった。例えば組み合わせ毎の意味の本があれば、辞書のように調べたいところだろう。もしくは、カードが語ることを読み切る力があるなら読めないこともない。
しかしそんなことは、本当の占い師だって本気でやったら疲れてしまうところだ。彼女にはそのどちらの選択をすることも今はできないのだろう。そして、早口でしゃべり始めた。

「小さなことから大きなことまで、人間には運命というものがあって、自分で選択しているようで、実は最初から決まっている運命みたいなものがあるのよ。このカードはそれを浮き上がらせて言葉にしてくれる。なのに、マスターからは運命の大小も感じられない。その現実の存在すら透明みたいに。誰を占っているのかも見失ってしまいそうな不思議な感じ。」

鈴木さんは余裕な微笑を浮かべている。私はホッと胸をなでおろした。鈴木さんの良いことも悪いことも、鈴木さんの意図でしゃべった事以外では知りたくなかった。
誰かに、鈴木さんのデリケートな部分に触られるなんて、もっと嫌だった。でも鈴木さんを占うことは彼女にはできなかった。なぜだかは分からない。
でも鈴木さんは、そうなると分かっていて占わせたのだろうか。

「分からないの?残念だな。」

そう言いながら鈴木さんは柔らかな微笑を浮かべながらコーヒーを差し出した。彼女はそれから一言も発せず、コーヒーに口を付けることもしない。
その後にやってきた数人の常連さんにも「占わせてくれ」と言わなかった。きっと彼女は占いをするために、占いをする相手を見つけにこの雑記帳へ来たのだろう。ところが、自分の予期しないことが起こったために、かなり混乱しているようだった。

「あら、あなたそれタロットカード?占いできるの?」

常連の女性が親しげに話しかけたが、彼女は振り向きもしない。

「ねぇ、占ってみてよ。」

常連の女性は彼女の顔を覗き込むように話しかけたが、彼女はボサボサの長い髪を前に垂らして表情が見えない。自分の手の中のカードを見つめたまま、コーヒーも飲まずに黙っている。

鈴木さんは常連さんのオーダーを聞くと、私を振り向いて目で笑っていた。「大丈夫、心配ないよ。」と言っているようだった。
タロットカードの彼女は、それからそっとコーヒー代をカウンターに置くと、何も言わずに扉の音もさせずに帰ってしまった。

「ねぇ、面白そうな子だったのに。素子ちゃんは占ってもらったの?どうだった?」


常連の女性は年配でよく話す。身に着けているものがいつも都会的で若々しい。名前は美雪さんという。私が、

「まぁ、当たるも八卦当たらぬも八卦って感じですね。」

と、いつもと変わらない感じの口調で言うと、私ももうちょっと早く来れば良かったと残念がっていた。でも、平静を装っていても、彼女の占いは私の心にボディーブローをかましていた。
平気なようで平気ではない。あんな生々しい絵柄の悪魔のカードを見せられて、今の自分は美雪さんと話すことも難しい。美雪さんは普通の話題を話していても、私が内心動揺していることくらいすぐ分かってしまうだろう。

「鈴木さん、2階の絵を見に行っていい?」
と私が言うと、鈴木さんはかすかに頷いた。


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