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【年齢のうた】西城秀樹●懸命に生きた彼が強い思いを込めて唄っていた「33才」

週末は、ジャパンキャットショーというものに行ってきました。初参加。
といっても、わが家はネコを飼っているわけでもなく、またこのショーの趣旨も今ひとつ理解できぬままの参加だったのですが。まあネコの品評会、みたいな感じ?

ひさびさに登場の筆者。
ポスターの横で

とにかく素敵なネコたちがたくさん集まっていて、とても楽しめました。どちらも品のあるネコさんばかり。

会場のタペストリーの前で

カミさん方の実家で飼っているネコもかわいいんですけどね。で、僕の実家のほうはイヌ派。まあ、それぞれに良さがあるわけで、僕はどっちにも縁があるのです。

さて、今回は西城秀樹のことを書きます。

前に書いたように、僕はずっと沢田研二のファンだったんですが、

歌謡曲はそのさらに前、小学生低学年の頃から聴いてました。テレビやラジオから普通に流れてくるものを。ただ、歌謡曲大好き!というほどではなく、なんとなくという程度でしたが。それでも島根の片田舎でいろいろな曲が耳には入ってたり、家で唄ったりはしてまして。母親がカラオケ好きだったし。
そして小さなわが町の小さな電気店には、これまた小さなレコードコーナーがあって、そこで秀樹の「炎」のシングルを買ったこともあったのでした。ほかに野口五郎の「泣き上手」だったかな? ピンク・レディーは一連のヒットシングルを。

西城秀樹とともに新御三家と呼ばれた野口五郎や郷ひろみは、僕は幸運にも一昨年、筒美京平の曲を唄うコンサートで生の歌を聴くことができたのですが(五郎のダジャレもありで)。秀樹の生歌に触れることはありませんでしたね。

ただ、実は、生の西城秀樹の姿を見たことはあったのです。
今回はそのことも少々。

秀樹がその年齢で発表した『33才』は大人のアルバム

西城秀樹は1970年代以降の歌謡界を代表するアイドルシンガーのひとり。といっても、僕個人は、彼にそこまで強く惹かれることもなく(シングル盤は1枚購入して聴いていたが)、ずっと過ごしてきた。
だから彼のファンの方に共感してもらえるようなことはあまり書けないかもしれない。そこはお断りしておく。

ただ、この【年齢のうた】を書き始める前に、あれこれとアイディアの下書きをしていた際に、西城秀樹の名は早々とあった。
彼の『33才』というアルバムのことが頭の片隅にあったからだ。

僕がこのアルバムを知ったのは、まさに発売されたタイミング。リリースが1988年の4月ということなので、おそらくその月だったと思う。
タイトルを目にしたのは広告がきっかけだった。当時、毎日取っていた新聞を開くと、ラテ欄か、あるいは社会面か……ページの下のほうに、西城秀樹のニューアルバムが出ることが広告として載っていたのだ。

そのタイトルが、『33才』。
えっ!? と、ビックリした。

これ、たぶん、今の秀樹のほんとの年齢なんだよな?

西城秀樹が、33才。
自分が子供の頃から知っていて、テレビの向こうで激しく唄って踊って、豪快なパフォーマンスを見せていた彼が……若さほとばしるアイドルたちの中でもことさらエネルギッシュな熱さを発散していたあの秀樹が、もう33才になっているという事実の意外さ。
そして、それを新しいアルバムのタイトルに掲げていることの斬新さ。
これらに驚いたのだ。

というのは、今ならともかく、1988年……80年代、それも昭和の末期は、かつてアイドル歌手だった人たちがそれこそ30代や40代になっていて、しかも仕方のないことだが、どのシンガーもレコード(そろそろCDの時代だが)のセールスが下り坂で。みんな、難しい時期を迎えていたのだ。

西城秀樹も御多分にもれずで、まあこの頃は自分がテレビをほとんど観ない年頃になっていたこともあるが、メディアを通して見かけることはぐっと減っていた。
調べてみると、僕がはっきり記憶している秀樹のヒット曲は80年代前半までのものだった。「聖・少女」や「ギャランドゥ」はよく知っているし(どちらも1982年発表)、「ナイトゲーム」(1983年)はハードロックのグラハム・ボネットのカバーで、やるなぁと思ったものだった。
そしてその後もそこそこヒット曲を出していた秀樹だが、往年のように街中のあちこちから聴こえてくるほどの大ヒットはなかったと思う。そのため、自分の中の秀樹はかなり遠い存在になっていた。

そのこともあって、アルバムのタイトルは脳裏に残ったものの、その『33才』というレコードを聴くことはなかった。引っかかりはしたが、自分はそこでスルーしてしまったのだ。

これからかなり経った頃には、秀樹のキャリアでは後期にあたるシングル「バイモラス」の㏚用の原稿を知人の編集者が書いたことを聞いたり(その1999年には僕はもう今の仕事をしていた)、自分に子供が生まれ、昔の『ちびまる子ちゃん』を観たことでエンディング曲のポップ・スカ・チューンの「走れ正直者」(1991年)を翻って知ったりしたが。それでも彼とはほとんど縁がないまま過ごしていた。

唯一、関わった……わけではないが。秀樹とは、ニアミスのようなことがあった。
あれは15年以上も前、カミさん方の実家がある名古屋に行くために、家族で東京から新幹線に乗った日のこと。繁忙期だったために普通の指定席が売り切れていて、グリーン席を渋々取った僕たちであった。
その時。車両の一番はじに乗ったわが一家と、同じ車両内のちょうど反対の、向こう側の座席に、なんと秀樹の一家が乗っていたのである。遠くから見ても、あそこに座っているのは、明らかに西城秀樹。彼にはそうしたオーラがあったということなのだろう。
ちなみにこの車両の乗客はほかに誰もいなくて、ひとつの車両の中に二家族だけ。ただ、座席位置が遠かったし、そもそも向こうはプライベートだから何も話しかけることなどしなかった。道中ではお母さん、つまり秀樹の奥様が、お子さんを反対側のデッキ(たぶんトイレ)に連れていくために僕たちのそばを歩いて往復されたくらいである。そしてわが家はそのまま名古屋で下車した。
とくに何の面白味もない話である。ただ、それでも、新幹線の車内で西城秀樹一家と遭遇したことは、自分にとってどこか特別な記憶として残っている。

秀樹は、この何年かあとに、亡くなった。
それからしばらくは追悼特集で放送された番組をいくつか観たり、関連の文献にも少し目を通した。豪雨の後楽園球場でのライヴでキング・クリムゾンの「エピタフ」のカバーを唄ったことを知り、そりゃすごいわ、秀樹ムチャするなー、と思ったりしたものだ。

そして今年、今回の【年齢のうた】。西城秀樹の『33才』というアルバムに向かい合ってみたのである。

「すでに人生の半分に来た」と唄う「33才」はフリオ・イグレシアスのカバー

1955年4月生まれの秀樹が、1988年の4月に発表した『33才』。これは大人のアルバムである。

いきなりファンキーな「Club Manhattan」で始まる本作では、当時のブラック・コンテンポラリー寄りのサウンドが展開されている。基本的に打ち込みで音を構築しているのが、いかにもこの時代らしい。
本アルバムからの先行シングルは「Blue Sky」。これは夏のイメージのある曲で、グループサウンズの匂いもありながら、大滝詠一のようなシティ・ポップを意識した側面も見られる。
アルバムの、とくにB面(後半)ではこうしたサマーソングが目立っており、「夏の誘惑」などは爽快さ満点。それこそ後述するフリオ・イグレシアスのようなヨーロピアンなポップソングで、この曲は7月にリカットという形でシングル化されている。ほかにラテンっぽい「真夏のPoison」もあるなど、4月に発売したとは思えない作品だ。おそらく最初から春の発売から夏に向け、長期スパンでアルバムをアピールしようとしたのだろう。
また、スローバラードの「スタンダードを聴きながら」はクオリティが高いし、やはりブラコン的なバラードの「愛に戯れて」のセクシーなこと。実際のところ、大人の愛や恋を唄っているアルバムだ。

そうした曲たちの最後にたどり着くのが「33才」である。この曲もシングルカットされており、そのタイミングは、なんとアルバム発売から半年以上あとの11月。


実はこれはフリオ・イグレシアスの楽曲の日本語カバーである。そして秀樹はかねてから、自分が33才になったらこの曲を唄いたいと語っていたとのことだ。

フリオ・イグレシアスはスペイン出身のスーパースター。それまでも活動はしていたが、80年代を迎える頃には広く世界的な人気を得ており、日本でも一大ブームとなるほど人気が爆発した。

なお、フリオの歌は、秀樹よりも前に、郷ひろみが日本語カバーをヒットさせている。

そのブームの頃から郷も、そして西城秀樹も、フリオの作品には触れていたはずだ。おそらく秀樹は20代で、ひと世代上のフリオの歌を聴き、何かを感じていたのだろう。

そのフリオには、1977年にリリースした『33歳』というアルバムと、それと同名の楽曲とがある。
その歌は、まさしく大人の香りたっぷりのバラードだ。

この歌は、その歌唱もさることながら、歌詞が人生というものを感じさせる。訳詞を見ると、愛する人とのここまでを振り返っていて、序盤には、16歳の頃にはもっと大人になりたいと思っていた、という描写がある。
そののちに、肌のしわとか、勝つためのゲームをしていたのがもはや失う側になったとか、加齢を感じさせる表現が出てくる。中には、33年という時間の速さについても……。
なんという大人っぷり。というか、これはもはや若さから遠ざかっていく人の歌だ。渋いというより、ちょっとした寂しさもある。
そして印象深いのが、たった33歳、でも人生の半分、というくだり。
フリオは33才の頃、そこが人生の半分どころだと唄っていたのだ。

この曲から11年後。西城秀樹が唄った「33才」は、なかにし礼が日本語詞を書いている。
こちらはフリオ版より、ちょっと若さが感じられ、ちょっとだけ寂しさが薄めの、前向きなものとなっている。直訳ではないが、かなりの部分は重なっていて、こっちのほうがラブソングらしい流れになっている。最後には、一緒に生きてくださいと唄っているのだから。
しかし先ほどの箇所は……秀樹も、すでに人生の半分に来た、と唄っている。

『33才』というアルバム(ジャケットにある33anosの表記も明らかにフリオの影響)、そしてこの曲。
思うのだが、この前から秀樹には、30代はこんな歌を唄っていきたいという気持ちがあったということなのだろう。

これは推測だが……若くしてアイドルとして成功し、スターになった秀樹は、どこかで自分の人生のそれからについて、また生き方について、深く考えたのではないだろうか。とくに、歌について。歳をとり、若さばかりでいられなくなった時に、歌手として、どんな歌を唄うのか。どんな言葉を、どんなサウンドで、どんなふうに唄っていくのか。さらに大人になった自分はどんな生き方をするべきなのか。
そんな思いが、この曲とこのアルバムには横たわっているように思うのだ。

それにしても、33才が人生の半分とは。そもそもこの曲を書いたのが1970年代にすでに30代だったスペイン人のフリオなので、寿命などを思うと、もしかしたらそういう考え方も普通だったのかもしれない。
ただ、その10年と少しあと、日本の西城秀樹がカバーした頃に、33才が人生の半分というのは、ちょっと早いんじゃないかという気はする。
そして彼が病で亡くなってしまったのは、2018年5月。63歳の時だった。

今この歌を聴いていると、ついセンチになってしまう。
それでも彼はたくさんの歌を残し、人々に感動を与えていった。それは間違いない。
くり返すが、僕は決して西城秀樹の歌のいい聴き手ではない。テレビとラジオでしか聴いたことがないようなものだった。
だけど今、時間を飛び越えて聴いた『33才』には感動を覚える。そしてこの「33才」という歌は、そこまでの33年間を懸命に生き、そしてそれからもまた懸命に生きるという思いがある人にしか唄えない歌だと感じる。

西城秀樹が残した数々の歌と数々のパフォーマンス、そしてその誠実さのすべてに、敬意を表する。


キャットショーのあとは
池袋サンシャインの伊勢ろくでお昼。
この親子丼の有名店でキジ焼丼、950円。
香ばしい味付けが最高です。
しかし写真がまたもダメダメ…

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