岩波文庫チャレンジ44&45/100冊【失われた時を求めて9・10巻】
9巻10巻は今までにも増して長かったり、繰り返しが多く思えた。このチャレンジをしていなかったら、次巻を読むか分からないレベルで少し疲れた。
が、その理由も読み終えれば納得できるものであり、やはり続きを読むしかない
9巻(ソドムとゴモラ)ストーリー
①ヴェルデュラン家サロン・・うんざりサロン体験とメタ読み
うんざり元は最初のサロン。長いのみならず(長いのは想定内)、真にうんざりしたのは、分けが分からないのに延々続く「地名の話」。
読んでいる間はうんざりなのだけど、訳者あとがきを読んで妙に納得した。“読者のみならず「少数精鋭」(サロン参加者)も退屈させていることを示そうとしたようだ。“うむ。
まさか読み手をうんざりさせる事が目的とは思い至らず、こんな手法もあるものだ。あのうんざり感は、あたかも自分もサロンに参加している感じを味合わせてくれていたのだ。
さらに訳者のメタ読み:“プルーストが示唆しようとしたのは、人間は周囲からいかに軽蔑されようと、なかなか自分の欠陥には気づかず、勝手におしゃべりを続けるものだと言う教訓“。
②シャルリュス氏のソドム行為
長い長いサロンが終わると、副題ソドムとゴモラへ。
シャルリュスがモレルという美少年に首ったけになり、サロンでヴァイオリンを演奏している彼に会いたいがために、自分の身分からすると格下サロン(ヴェルデュラン夫人宅)の常連になる。
氏のソドム行為は、このサロンでは一目瞭然、同性愛は周知の事実。目下、氏だけがバレていないと思い込む盲目状態が水槽の魚に例えられる。
そしてこのモレルがイケすかない。シャルリュスの自分への恋心を利用してお金を着服したり、身分を偽ったりする。
元々高貴な身分ではないから、出世欲が強かったり、お金への執着が強かったり、身分やお金がないだけで下に見られたくない、と思ったり。そう思うと、素行は悪いけど必死に上を目指しているだけとも言える。
そしてなぜかゲルマント大公と「行きずりの一夜」を過ごす。どうしてそうなったか、後にお金のためだったと語られる。たまたま二人が一緒にいる所をシャルリュスに見られ・・娼館でのアレコレを覗き見される。
シャルリュスの目がある事に気づいて驚愕するモレル!
氏は水槽の魚だから、覗きがバレている事には気づかない。
ゲルマント大公にもソドム趣味が・・シャルリュスにとっては本作にたくさん登場する同類なのだが、美少年を除く同類には厳しい目を向ける。
ちなみに、最初にシャルリュス氏がソドムだと記載があったのはどこだったかと不意に思って調べた所、そのネタバレは「注釈」にあった。理解を助ける注釈なので、知っておいて読む方が面白く読めるという配慮だろうか。
失われた時を求めて、には後から読んでそうだったのか、となる書き方が多く「後になって分かる」「その時は知るよしもなかった」などの臭わせから想像する楽しみもある。
ストーリーを知らない自分としては、9巻のネタバレ注釈はちょっと・・伏せて欲しかったかも。(*本記事のずーーーーーーーっと下に載せているので、気になる人はずーーーーーーっと下をチェック)
③ラブラブアルベルチーヌからのゴモラ疑惑
アルベルチーヌといつの間にやらラブラブな「私」。
こんなにラブラブなのだから、ゴモラな訳はないと安心して、「私」特有の愛してる愛してない、どっちなんだい!を繰り返す。
読んでいる方はいい加減イライラしてくるが、あとがきによれば、この物語の「私」はアンチ・ヒーローであり、作品テーマはアンチ・ロマン。ぐぬぬぬぬ。
「私」も一応自分のことを分かっている。分かったよ、結局は「愛している」んだね、そういう事にしてあげよう。
そして思い出す、1巻の感想。
ここら辺でようやく繋がったスワンと私の共通点、幻影を愛してしまう事。“スワンなら分かってくれた“
そしてここでも繋がる、序盤(確か1巻)で登場したゴモラ女性の名がアルベルチーヌの口から出た途端、疑惑が再燃。9巻はそのままゴモラ疑惑で終わる。
そして一旦頭によぎった疑惑は「私」に取り憑き、頭から離れなくなる。だが、決定的な証拠があるわけではなく、あくまで疑惑の域を出ない。なのになぜそこまで苦しむのかというほど苦しむ。
訳者はここで、前回シャルリュスソドム行為には、目撃という確たる証拠があった事を引き合いに出し「プルーストは、なぜ異なる書き方をしたのか」と問う。いわく、“恋心をかきたてるのは性愛の成就ではなく、相手が自分のものではないと言う焦燥であることを示すためだろう“。
そんなゴモラ疑惑に取り憑かれた「私」の繊細な一面。
10巻(囚われの女)ストーリー
①アルベルチーヌと同棲、監視、夢想と疑惑
愛するアルベルチーヌを、一切の(妄想)ゴモラ友達から引き剥がすべく、同棲を開始。いや、同棲という名の元に監視して心の平和を取り戻そうとする。
アルベルチーヌは籠の中の鳥=囚われの女となり、支配・征服・屈服などの言葉も多用される。
しかし現実は思い通りにはならず、思い通りに支配できる夢想に浸る。
やたらと繰り返される「愛してる・愛してない」や「夢想・現実」を行ったり来たりする「私」。
プルーストの言葉では「知見と無知」あるいは「精神の目と肉体の目」
疑心暗鬼を繰り返す「私」を見透かしてか、元々の性格からか、監獄の身上からか、アルベルチーヌも本音を言わなくなる。うむ、当然だろう。
⑤聴覚の世界(最晩年のプルースト描写)
「失われた時を求めて」の作品構成は全7篇。
・スワン家のほうへ
・花咲く乙女たちのかげに
・ゲルマントの方
・ソドムとゴモラ
・囚われの女(今ここ)
・消え去ったアルベルチーヌ
・見出された時
しかし元々は3篇構成(スワン家のほう、ゲルマントのほう、見出された時)で、囚われの女と消え去ったアルベルチーヌは、プルースト最晩年の執筆、加筆で、出版もシ後のもの。
大幅な加筆は、第一次大戦による出版中断の間との事。うっ・・それであんなに繰り返し繰り返し繰り返し、があったのか・・。
晩年の精力的な加筆で注目したい箇所、それは聴覚の世界。部屋にいながら「私」が耳にするパリの物売りの声、その多彩な描写。
聖歌のような呼びかけ、という事なので、「いしや〜きいも〜ぉ、やきいも!」とは明確に違うのだろうけど、一つ一つが耳に残るリズムな事は想像できる。
1巻名シーン、紅茶に浸したマドレーヌが嗅覚の世界であったのに対し、今回は聴覚の世界だと訳者は対比している。
話は全く変わるけれど、この紅茶とマドレーヌのシーンは、今読んでいる別の本にも引用されていて、やはり名シーンなのだと再認識。
「匂いが刺激となり、意味や感情を引き出すことは、動物とは異なる人間の脳の特別なメカニズム」という内容の一節がある。(全く別の本に今読んでいる内容の引用を見つけた時の嬉しさと言ったら✨笑)
⑥作家ベルゴットのシ
最後に少年時代の「私」が好きだった作家ベルゴットのシが語られる。
フェルメール「デルフトの眺望」を前にして動かなくなった作家・・有限である人の命と無限に残る芸術作品との対比。
作品が残れば作者もその中で生き続けることになる。が、作品も永遠に人々の記憶に残るわけではない事もチクリ。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。長すぎて忘れられているかもしれませんが、これより下に注釈によるネタバレが含まれます。
岩波文庫100冊チャレンジ、残り55冊🌟
注釈ネタバレ
サン=ルーとモレルのソドム関係!!(まじか)
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