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【ネタバレあり】『NOPE』とショービジネスとアジア系俳優、そして解放者としての捕食者について(スティーブン・ユァン氏への敬意を添えて)

まことに勝手ながら、俳優のスティーブン・ユァンさんを見ると複雑な心境になってしまいます。普通に好きだしファンだし応援しているんですが、彼自身というより彼を取り巻いている(であろう)環境を勝手に想像して、勝手に複雑な気持ちになってしまうんです。

映画『NOPE』の予告を見てスティーブン・ユァンが出演していることを初めて知った時は、複雑な気持ちになると同時に「ヘァ〜ン」みたいな気持ちになりました。ちょっと気が抜けるような、鼻白むような気持ちです。

「ヘァ〜ン(…もしかして、都合のいい俳優だと思ってる?アジアでだけで売れてるんじゃなくてアメリカの映画・ドラマ界で実績あるもんね。英語喋れるし、顔もきれいだし物腰柔らかいし。スティーブン・ユァン出しときゃ「まーたアジア人は排除かよ」って批判されずに済むもんね。ほかに韓国系の俳優知らんのかァア〜ン?)」

「ヘァ〜ン」の中身を表現するとこんな感じです。

スティーブン・ユァン氏のことは素晴らしい俳優だと思っていますが、どっちかというとキャスティングする側に対するうっすらとした不信感が自分の中にあるのだということに気づきました。

真田広之もハリウッド映画の現場で無償ボランティアのように扱われていたと聞きますし、都合のいい存在みたいに思われてやしないかと、ちょっと心配になったんです。

とはいえ、ジョーダン・ピール作品は好きだし、これまで人種問題をベースにした作品を残してきた監督ですから、まさかスティーブン・ユァンのことも雑に扱ったりしないだろう。そう期待して映画館に行きました。
…結果、期待通りどころか「もしかして…見透かされてる?」くらいの衝撃を受けて帰ってきたので、ここに記録しておきます。

※以下、『NOPE』のネタバレあり

アメリカのショービジネスで揉まれる有色人種、解放者としての破壊者

『NOPE』におけるスティーブン・ユァンの役どころはこうでした。

彼はジュープという役で出演しています。ジュープは1998年、子役としてホームコメディの舞台に立っていました。

そのコメディのメイン出演者は、父、母、姉(?)、子供時代のジュープ(弟?)で成り立っているようですが、ジュープだけが有色人種(アジア系)で、ほかはみな白人です。2022年の現代でこそ、ショービジネスにおける人種差別は多少は(本当に、ほんの少し)解消されているのかもしれませんが、まだまだです。二十数年前の1998年ではなおさらでしょう。

子役とは、なかなかハードな仕事です。好奇、期待、あざけり、カネ、視聴率…大人ですらしんどい世界なのに、子役は心身ともに未熟な状態で過酷な環境に耐えなければなりません。アジア系子役のジュープが当時の現場で感じていた緊張やストレスを思うと、心が暗くなります。

子供時代のジュープは本番中に少しトチってしまう場面があります。父親役が「大丈夫、もう一度言ってごらん」と声をかけ、ジュープはセリフをしゃべります。現場では優しくしてもらってるのかな、と推測することもできますが、「子役でしかも1人だけアジア系」という状況で人一倍緊張しているからトチってしまったのだとも受け取れます。

映画の冒頭では「わたしはあなたを辱め、見せものにする」という内容のナホム書の一説が登場します。

そのホームコメディは「ゴーディ」という名の猿を出演させ、ゴーディを舞台の上で笑い物にして成り立っているショーでした。まさにゴーディが辱められ、見せものにされているのです。「どうせ言葉が通じないんだから」と。言葉が通じていないはずなのに、生まれ故郷のジャングルをネタに揶揄われると激昂する演技をする、これがこのショーの見せ場でした。(どうせ言葉が通じないから」と笑い物にされる場面は、私たち人間の世界でも往々にしてありますね。)

ジュープの話に戻ります。子役時代のジュープの役は、メインキャラクターに抜擢されて栄光あるポジションなのかもしれませんが、少し気の毒な役どころでした。

それを事件が起きた日の舞台での一幕が物語っています。父親がゴーディに時計をプレゼントし、「でもお前は文字盤が読めないんだよな」と馬鹿にして会場も笑います。それに対しジュープが満を持してとっておきのプレゼントを渡そうとしますが、姉がもっとすごいプレゼントを取り出してきて、ジュープは唖然とします。

まさに「手柄を奪われる」場面です。

スタジオに馬の安全講習に来たエメラルドも言っていました。「映画の歴史の始まりは黒人なのに」と。手柄をまんまと白人に持って行かれたわけです。白人の子役が演じる姉に手柄を奪われ、残念そうな顔をするアジア人の子役の顔を見てみんなで笑うという、なかなかにグロテスクな構図です。

ゴーディとジュープは、「舞台の上で笑い物にされる」という共通点があったわけです。しかもそれを、誰も疑問に感じず楽しんでいる。

私はこの場面を見ていて、「やってらんねえよな」と思いました。「そらゴーディもキレるわ」と。ブチギレて全部ぶっ壊したくなるよなと。

事実、ゴーディはそうしました。歴代の猿のなかで一番演技がうまく、会場を湧かせ、演出側の身勝手な期待に応えてみせる「都合のいい猿」を続けてきたゴーディを、「どうせ言葉が通じないから」とみんな嘲ってきました。でも違ったのです。本当に言葉が通じていたのかはわかりません。でも自分が笑い物にされていることは少なくとも気づいていた。ブチギレて、全部ぶっ壊しました。

唯一壊さなかったのは、アジア系子役のジュープだけです。「子供だから見逃したのかな」とも思いますが、姉役の子供(白人の女の子)は顔をぐちゃぐちゃに破壊しています。隠れて震えているジュープにそっと手を伸ばしたゴーディは、ジュープにだけ慈悲を見せたかのようにも見えます。しかし2人が触れ合う直前で、ゴーディは射殺されました。

以来、ジュープはゴーディをスーパースターかのように崇めます。ゴーディの思い出の品を飾った部屋は祭壇のようにも見えます。目の前であんなことが起きて、トラウマになるはずなのに。事実トラウマなのでしょう、大人になったジュープの精神的な不安定さを垣間見せるシーンも随所にあります。トラウマだけど、同時に憧れの存在でもあった。

ゴーディは破壊者であると同時に、解放者でもあったのです。ヘドが出るほどクソなショービジネスの世界を破壊して、解放してくれる存在。

ジュピター・パークでUPA(宇宙船、あるいは捕食者)の出現に恍惚とするジュープは、再会を喜んでいるようにも見えます。破壊者という名の解放者の再来です。ゴーディが舞台を破壊したとき、姉役の脱げた靴だけなぜかそこだけ重力が狂っているかのように直立していました。ジュープがゴーディと地球外生命体を関連づけて考えていたとしても不思議ではありません。(『NOPE』でいちばんカタルシスが盛り上がる場面ですが、直後に地球外生命体の食道内の様子を見せられて、カタルシスは一気に吹っ飛びました…そこも映すのぉ〜…?)

スティーブン・ユァンとジュープに通ずる奇妙な親和性

スティーブン・ユァンの話に戻ります。私がスティーブン・ユァンを見て複雑な心境になってしまうのは、『NOPE』以前にも感じていたことでした。
ポン・ジュノ監督のNetflix映画『オクジャ』にもスティーブン・ユァンが登場しています。田舎の村から自分の愛するペット・オクジャを探しに来た女の子を誘拐する一味として登場するのですが、女の子に「英語を勉強しなよ」と言うシーンがあるのです。スティーブン・ユァンに多かれ少なかれ「アメリカで成功した韓国人」という象徴性があるのだろうと感じさせられた一幕でした。

アメリカの映画界で活躍するアジア系俳優が感じる重圧とは、どれほどのものでしょうか。映画界での人種差別はほんの少しだけ解消されつつあるとはいえ、アジア系はまだまだ少ないのが現状です。

若くして『ウォーキング・デッド』で人気を博し、アメリカ映画やドラマに数多く出演しているスティーブン・ユァン。知的で物腰柔らかくて、穏やかそうな雰囲気を纏っています。とても好きな俳優ですが、彼が感じている(であろう)重圧を思うと、心が(勝手に)重くなってしまいます。「アジア系俳優」として一挙一動が注目され、ほんのささいなきっかけで映画界で活躍する他のアジア系俳優や、これから頑張っていこうとしてるアジア系若手俳優に重大な影響を与えてしまうかもしれない緊張と重圧。『ウォーキング・デッド』のグレンの好青年イメージを、守り通さなければならないのか……

わたしはスティーブン・ユァン氏と『NOPE』のジュープに、奇妙な親和性を感じずにいられませんでした。アメリカの映画界で活躍する韓国系俳優のスティーブン・ユァンが、ジュープという役を演じることの象徴性。欧米系のキャストだったら、ジュープの役から感じ取れるものはまた別物になっていたでしょう。あの味はスティーブン・ユァンにしか出せないと思います。『NOPE』にスティーブン・ユァンが出演していると知って「ヘァ〜ン」とか思っていた私のような人間に「雑にスティーブン・ユァンをキャスティングしたとでも思ったかァア〜ン?」とジョーダン・ピールに言い放たれたかのような気にすらなりました。こんな個人的な感情の動きすら、この映画の一部なのだとしたら…

もしかして…見透かされてる? いやさすがに、考えすぎだと信じたいです…。

ともかく、『NOPE』はとても素晴らしい映画で、人種問題の描き方の繊細さはさすがジョーダン・ピールと言えるものでした。ゴーディとジュープの奇妙な共感を丁寧に精緻に描き出していました。

話は変わりますが、役名にも宇宙っぽさを演出していたんですかね〜。映画監督の「ホルスト」は作曲家のホルスト(代表作は『惑星』)を連想させますし、ジュピターは木星だし。あ〜良かったなぁNOPE。もう一回観たいです。



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