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四宮のフランス体験記#7

 フランスに来てまで日本の英知とご対面である。今までぼくが行ったことのある美術館の電子ガイドはトランシーバーの親戚のような形をしていて、音質もすこぶる悪かった。3DSなら液晶の文字解説も、音声による解説も楽しむことができる(後で知ったことだが、ルーブルで使われているソフトは発売されていたらしい)。

 入口を通って、中へと入っていく。ルーブルは広い。建物狭しと詰め込まれた美術品の数々は、その一つ一つを真面目に見て回っただけでは何日かかるか分からない。だから、時間と相談しながら見たいものを見ていく、といった格好となる。古代オリエント世界の石像にイスラム世界の絨毯、遠く離れた極東の日本画まで収蔵されているというから驚きだ。人類の美術史そのものと言っても過言ではないかもしれない。

 ぼくはそのさまざまな選択肢の中から、まず古代オリエント世界の展示物から見ていくことにした。さっそく、エジプトのミイラの棺桶のお出迎えである。自分の背丈以上のミイラの入れ物が並ぶ姿は少々不気味で面白い。

 脇を見ると、副葬品として埋葬された小物も同時に展示されていた。当時のエジプトに生きた人々は、死体をミイラにすると来世が保証されると考えていたらしい。来世にミイラになった人々が生まれたかどうかは分からないが、少なくとも彼らが生きた証は、こうして現代に語り継がれている。

 次に古代ギリシャの石像たちだ。無論、当時の技術である。大理石を削る道具など、手持ちのノミくらいしかなかっただろう。そのような時代に石にひと肌の質感すらも表現する職人の技術にはひたすら感服させられるばかりだ。二千年近いの時を経てなお人々の心を動かすなんて、彼らは一体どのような日々を過ごしていたのだろうと思った。

 この石像たちの中でも、個人的に見たかった作品が二つほどあった。サモトラケのニケと、ミロのヴィーナスである。先に、サモトラケのニケを見た。首が欠落してなおその神々しさを保つ、勝利の女神の姿を目に焼き付けることができた。


 そして、いよいよミロのヴィーナスである。世界史の授業でも真っ先に覚えることになる美術品の一つである。ルーブルもこの作品が目玉であることは承知している。部屋の中央に像を配置して、四方八方から眺めることができるように工夫を重ねているのだ。部屋の入り口が見え、ぼくは期待に胸を膨らませ、部屋に入り、そして落胆した。

 なにも感じない。

 ただ腕のない姉ちゃんが像になっているだけである。


 ぼくはこれを見るまで、美術品というものはおおよそ、見たものの心を動かすから評価されていると思っていたのである。だから、ミロのヴィーナスを見たときにも何かしら、ぼくの心は動くものだと思っていた。


 が、現実は非常である。教科書で見たミロのヴィーナスの写真がそのまま立体化されただけで、何の感傷も抱かない。教科書で見たアレ以上でも以下でもない。そりゃ確かに、目の前でみるそれは写真よりも大理石感があったりとかといった、リアリティがある。だが、それだけだ。

 やばい。

 これはぼくのハリボテのプライドが許さなかった。歴史的名作を目の前にして何も感想が出てこないなど、表現を生業とする小説家の名倒れである。大体、これを見せてくれたルーブルの方々へ申し訳ないではないか。なんとか、この像から何かの感想を引っ張りまわさなければいけない。

 ぼくはヴィーナスの周りを歩き回り、情報を得ようとした。石から女性の質感を再現している技術は確かにすごいが、それはほかの像とて同じだろうとぼくは思った。身に纏っている衣の質感も大変素晴らしいが、ほかの像と同じに見えた。
 しかし、ここでぼくに天啓が舞い降りた。ヴィーナスの後ろ側に回ったぼくの脳裏に、ひとつの立派な感想が思い浮かんだのである。

 腰から尻にかけてのラインがエロい。


 少なすぎず、かといって多すぎない量の脂肪が付いている。肌も触り心地がよさそうだ。これは素晴らしい。実に名作だ。歴史に残るに違いない。

 よし、感想が出たな。


 こうして満足した小説家は、ヴィーナスを後にして次の展示室へと向かった。

 小説家のプライドは、粉々に砕かれた。

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