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四宮のフランス体験記 #4

 人生でナンパをされたことのある人間は、どれほどいるのだろう。少なくともぼくはなかった。されたことのある人間が自慢の種にしていたのを聞いたことがある。オスとして、メスとしての魅力の証明の一つになるのだから自慢くらいはしてもいいだろう。フランスでナンパされたとなれば、極東の誇りとなるに違いない。しかし……この状況は、ぼくが追い求めていたことと少し、違う。

 目の前の好青年……いや、表現を変えるべきだ。紳士の皮を被った獣は、今まさにぼくを喰らおうとしている。宿のことは自分で何とかするとして、まずは逃げおおせねばならない。

「君がかわいいと思ったんだ。きれいだと思ったんだよ」

 かわいいなどと形容されたことはこれまでほとんど日本ではなかったから、彼のセリフは意外だった。東洋人はかなり若く見えるのだ。しかしよくもまぁそんな歯が浮くようなセリフを吐けたもんだな。そう思って聞いていると、彼はさらに続けた。

「まだ日も遅くないんだ。一杯奢ってあげるから、どう?」

 そういうと彼はバーの扉に手をかけた。魔界へと続く禁断の門扉があっさり開く。中は一見、カウンター式の普通のバーだった。向かって右側が壁で、左側にカウンターがあって丸椅子がおいてある。しかし、その奥にもう一つ扉がある。その扉からは言葉にはしづらい、例えようのない禍々しさが伝わってきた。

 あそこに入ったらすべてが終わるという確信があった。


 今まで、ぼくは少なくとも純潔に生きてきた。人間はもちろん、これまで大腸カメラ一台の侵入さえも許したことはない。そしてこの青年にとっては不幸なことであるが、恋愛対象は男性ではなく女性だ。今この扉をくぐったら、大変な思い出を持ち帰ることになる。

「あ、あの、ぼく長旅で疲れてまして」

 蚊の鳴くような抵抗もライオンには通用しない。

「大丈夫。ゆっくりして体力を回復してからでいいからさ」

 それから何をしようってんだ。それじゃあまた疲れちまうだろうがよ。しかし、今までの彼の態度から好青年であることはわかっている。それなら、さっさと逃げてしまえば問題ないだろう。

「ごめん!ぼくもう行かなきゃ!またね!」

 適当なことを言って、ぼくはその場を離れた。いや、離れればならなかった。

 そのままトランクを引きずって逃げるように裏路地を離れて、大通りに出た。青年はさすがにここまでは追ってこない。海外とはなんと恐ろしい場所なのだろうか。パリ滞在数時間で貞操の危機を迎えるとは思わなかった。

 結局、宿にはそこから30分ほど、自力で地下鉄を乗り継いでたどり着くことができた。しかし、問題が一つだけ残っていた。口説かれた経験など後にも先にもこれが初めてである。


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