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「アテラ」


 「アテラ」とは誰か?

 「日本」という国号は、文武天皇4年・西暦700年に完成した令11巻とその翌年の大宝元年・西暦701年に完成した律6巻からなる大宝律令に定められた。それまでは「倭」であった。しかしその名も実際には国名ではなく、その時の中国からそう呼ばれていたというだけのものであった。

 そして唐の時代に編纂された『翰苑』には後漢に朝見した倭の王は「倭面上国王帥升」であるとある。つまり、唐の時代には「倭面上」があったことになる。唐の時代には「倭」は「倭面上」となっていた。「倭面上」は草書から楷書に書き直す段階で「倭面土」が間違って書き写されたことが想像される。「上」と「土」は草書で書けば区別できない。つまり「倭面上」は「倭面土」であり、「いめど」と読まれる「やまど」であった。

 そしてさらに、「親魏倭王」の金印を下賜された「倭王」は倭の王であったが、いわゆる魏志倭人伝には「邪馬壹国」にいた「卑弥呼」であるとされる。「邪馬壹国」の「壹」の文字も草書から楷書へ書き写す段階で、「臺」の文字と区別しづらいために「壹」となってしまったものとほぼ確定的に言われている。陳寿が魏志を書いたのは草書であり、それを陳寿の死後に官吏が草書で書き写し、さらに後の世に楷書に書き替えられたのであるからである。陳寿の時代楷書はなかったといわれる。対馬が「対海」になっていたり、壱岐が「一支」になっていたのはそういうことであった。「邪馬壹国」は「邪馬臺国」であった。そしてその読みは「やまたいこく」ではない。
中国では一文字は一音であるという。つまり、「台」は「だい」とは読まない。「台」を「たい」と読むのは、後の世の「台湾」の「台」を「たい」と読む当て字を持ってきただけのことであるといわれる。「邪馬台国」は「邪馬臺国」であり、「やまだこく」であった。「やまだこく」は「やまどこく」でもあった。

 大宝律令は、令は30篇953条、律は約500条であったといわれる。後の養老年間に撰修された養老律令が757年に施行されるまでは、大宝律令がその時まで使用されたという。大宝律令も養老律令も後に名付けられた学術用語であり、当時はそのようには呼ばれてはいなかったという。

 一般に初めて令が編纂されたのは天智朝の近江令であり、次に天武朝の飛鳥浄御原令があるが、いずれも令のみであり律がないという。天武朝時代には唐の律を准用したといわれる。しかしこれは当然であり、それまでは倭は純粋な独立国ではなかった。なぜなら後漢書東夷伝にあるように「漢倭奴国王」であったからである。つまりは漢の「倭奴国」であり、漢帝国の中に含まれていたからにほかならない。当然のことながら、朝鮮半島にあった当時の国も漢の律令を使用していた。元号もそうであった。唐の時代も同様に新羅や百済は唐の律令を使用していた。そして当然のことながら倭もそうであった。
 
 ところが、天智2年・西暦663年に起こった百済再興のための「白村江の戦い」に敗戦して後、倭は唐の敵国となってしまったのであった。そのため、天武天皇は唐のさらなる倭への侵攻に備え、瀬戸内に山城を建て、都を京より東の比叡山を越えた近江に移した。そうして、唐の律令を廃し、668年近江令を編纂したのではないかともいわれる。編纂したのは中臣鎌足であった。

 中臣鎌足は、天智天皇が天皇になる前の中大兄皇子であった時の西暦645年に起こった「乙巳の変」の功労者であり、ともに「大化の改新」を行ってきた天智天皇の側近である。「乙巳の変」とは説明するまでもなく、時の最大の権力者であった蘇我入鹿の暗殺事件とそれによる中大兄皇子の母である皇極天皇の退位のことをいう。皇極天皇の御前において白昼行われた殺人事件であり、暗殺とは呼べないものであった。これはいわゆる反蘇我氏派によるクーデターであった。しかし、実際には蘇我氏の中心人物でもあった蘇我倉山田石川麻呂や蘇我赤兄が蘇我氏を倒した中大兄皇子側にいたのである。そうでなければこのことはならなかったといわれる。

 蘇我入鹿は一般には知られてはいないが、第9世か10世の武内宿禰である。武内宿禰については別に述べるが、天皇を大君とし、武内宿禰を大臣とする“君臣制”であった。これは後の世に云われる“君”と“臣”ではなく、大君は祭祀(まつりごと)を行い、大臣は政治(まつりごと)をおこなうというものであった。

 もとはといえば、大臣であった蘇我氏は“臣”ではなかった。大臣は大君と実の兄弟であった。景行天皇の王子であった後の成務天皇と武内宿禰は双子の兄弟であったといわれる。そのためときどき付け髭をつけて入れ替わっていたという。そのため政務天皇はあるときは武内宿禰になり政治を行い、武内宿禰は政務天皇となり祭祀を行った。天皇即位に伴う大嘗祭にも関わるといわれる武内宿禰はヤマトタケルの兄でもあった。つまり、政務天皇と大碓と小碓ら兄弟の小碓がヤマトタケルである。そして成務天皇には皇子がいなかったため、小碓・ヤマトタケルの子である仲哀天皇が皇位を継承したが、これは小碓が兄である武内宿禰によって死に追いやられたため、その罪滅ぼしの意味もあり小碓の子を天皇にしたともいわれる。そして天皇と同じ“尊”の称号を贈り“倭建尊”としたともいわれる。

 そして「乙巳の変」の最大の功労者であった中臣鎌足は“中臣”つまり“中富”であった。現在は継体天皇陵としてほぼ確定している今城塚古墳のそばに中臣鎌足の別荘があったといわれる。中臣はこの地域を所有していた。ここは現在の大阪府高槻市である。しかしこの“中臣”の“臣”は“おみ”ではなく“とみ”と読む。この“臣(とみ)”は“富(とみ)”であった。この“富”は関東では富岡製糸場の“富”でもあり、那珂の“富”でもあり、関西では奈良の“登美”でもあり、“等彌”でもある。また“外(とみ)”とも書かれ、神武天皇を助けた金鵄である“鳶”でもあり、最近発掘され日本最大の2m37cmの蛇行剣が発見された富雄丸山古墳の北には登美ヶ丘もある。

 富雄丸山古墳は直径109mの円墳であり、長さ6.4m幅1.2mの粘土槨に割竹型木棺があり、三角縁神獣鏡3面と鼉龍文盾形銅鏡も副葬されていた。4世紀後半頃の築造といわれるが、ちょうど政務天皇の時代である。

 政務天皇と武内宿禰は双子であったといわれる。

 しかし、富雄丸山古墳の被葬者は古墳の墓誌研究からは手白髪郎女・手白香姫ともいわれるが、彼女は仁賢天皇の娘であり、継体天皇の皇后であり、欽明天皇の母である。政務天皇からは8世代ほど後の人である。

 そして、政務天皇と双子であった武内宿禰の8世代後は蘇我入鹿である。しかし実際には第一声武内宿禰は仲哀・応神・仁徳・景行の4代の天皇に仕えた。つまり、入鹿の4代前は稲目である。蘇我稲目も第6世か7世の武内宿禰である。

 富雄丸山古墳は直径110mの円墳である。墳頂には古墳の被葬者が埋葬されていたが、明治期に盗掘されてその詳細は不明であるという。そしてこの度この古墳の北東側の作り出しの部分から木棺と蛇行剣と盾形銅鏡が発見された。この木簡の被葬者は女性であった。竹製の豎櫛と成道鏡3枚が副葬されていた。欽明天皇と堅塩媛が被葬者ではないかとの説があるらしいが、ここは円墳である。天皇の墓ではない。欽明天皇の墓ではないはず。欽明天皇の御陵は前方後円墳の梅山古墳である。

 堅塩媛は蘇我の稲目の娘である。蘇我稲目の子である馬子や小姉の君の妹である。そして欽明天皇の妃である。そしてさらに欽明天皇の母が手白髪郎女・手白香姫である。彼女の父は天皇である。ここにはいるはずはないことに。

 つまりは、富雄丸山古墳は蘇我稲目とその娘である堅塩媛の可能性が考えられる。最も高位の祭祀を行う武内宿禰である稲目とその娘ではないかと考えられる。2mを越えるというこの蛇行剣は祭祀にしか使えないものであった。
 

 そして、「親魏倭王」の金印が魏より下賜されたのは卑弥呼が亡くなったといわれる西暦248年よりも前である。その当時には奈良の纏向には大きな都市があった。そして最初の巨大前方後円墳がその南の箸中に築造された。一般に箸墓古墳と呼ばれる箸中丸山古墳はこのころにいたヤマトトトヒモモソヒメが埋葬されているという。宮内庁の管理で大市墓ともいう。ヤマトトトヒモモソヒメは卑弥呼ではないかともいわれる。

 しかし、一般に云う魏志倭人伝には邪馬台国は九州にあったとしか考えられない記述がある。また、それよりも前の時代の「漢倭奴国王」の金印を下賜された倭奴王は誰であり、どこまでが「漢倭奴国」であったのか。この金印が漢より下賜されたのは後漢の建武中元二年・西暦57年であった。倭の奴国王は光武帝の時代である建武中元二年春正月に使いを送り奉献したという。洪武帝紀には、倭の奴国の使者が後漢の都である洛陽における正月の儀式に参列し、印綬を賜ったという記事があるという。その金印が後の江戸期の天明四年・西暦1784年に福岡県の志賀島で発見された。後漢書東夷伝には、「倭の奴国 貢を奉じて朝賀す 使人自ら大夫と称す 倭国の極南界なり 光武 賜うに印綬を以てす」とある。

 そしてここでの謎は、漢の「倭奴国」のあった西暦57年に、倭には「奴国」のほかには国はなかったのかということ。漢代の官印には位によって玉・金・銀・銅があり、印文には「璽」・「章」・「印」の別があり、鈕には龍・亀・駱駝・蛇・鼻鈕という区別があったという。また、印を吊るす綬には赤・緑・紫・黒・黄色などの序列があったという。「倭奴国王」の印は、印文は格下の「印」であり、鈕は蛇で、綬は紫であったであろうといわれる。しかし、金印であることにおいては内臣の王璽と同じ位であったともいえる。また、その後の安帝の永初元年・西暦107年には倭国王帥升等が生口160人を献じて清見を願うとある。「倭国王帥升等」とはだれか?「帥升等」なのか「帥升ら」なのか?

 そして最大の謎である「親魏倭王」とはだれか?「卑弥呼」は固有名詞か?そして「狗奴国」の「卑弥弓呼」とはだれか?

 これらの謎を独自の視点で解明していきたい。


1 はじめに
 中国史をまず簡単に紹介する。中国史は先秦の時期から秦・漢の時代を経て、清代、民国・現代につづく。それは10の時代・時期に分けることができるといわれる。

 先秦の時代は、夏・殷・周・春秋・戦国に分けて呼ばれる。殷王朝の滅亡は紂(帝辛)が周に滅ぼされた紀元前1046年とされる。殷は本来都城の名前であり甲骨文では商と自称している。今の日本でいう“商人”と同じで、後に西洋からシルクロードと呼ばれたように東西交通の起点となる地をおさえ、通商を行っていたといわれる。後に契丹が中国北部を治める時代が来るが、契丹の古伝には「殷は古の倭なり」という記述があるといわれ、日本のルーツにもかかわっている可能性があるともいわれる。

 周の文王は殷王朝から王位を受け継ぎ、その次代の武王が殷を打倒したといわれる。成王の時代に摂政であった周公旦が殷を解体し、王位を簒奪しようとした武庚を滅ぼしたといわれる。この時代の記録は少なく、詳細は分からないが、「周礼」にもとづく封建制度がこの時代の特徴であった。後に『封神演義』などで描かれる伏羲と女媧の物語にもある殷周革命である。
夏殷周三王朝の国制は王の都城、王の直轄地である内服、封建諸侯の統治する外服の三圏からなり、諸侯に対する殷王朝の支配は緩やかなものであり、貢納に対する青銅器の下賜といった関係が実態であったといわれる。それに対し周王朝では、諸侯に対する定期的な朝見・貢納を定め軍役も課したという。また、王と同姓諸侯は分家の関係であり、宗法という相続・祭祀の秩序によって結ばれていたという。この時期に王朝の諸侯に対する封建体制が確立したのではないかと思われる。71国の諸侯が武王・成王期に封建されたといわれる。

 その後は中原の覇者であった晋が周王朝を支えていたという。しかしその当時も、晋を中心とした外交関係は「礼」を規範とした。中原諸国は「礼」を共有し、「諸夏」と称したという。この時代に禹を夏王朝の開祖とする「中原の夏」、いわゆる「中華」の思想がこのころ出来たといわれる。

 その後は“キングダム”でも描かれた秦の時代には強力な中央集権体制が確立された。紀元前247年に即位した秦王嬴政は紀元前238年に親政を開始した。その翌年に斉と趙の王が秦に来朝したが、他国を臣従させることはできないと悟り、武力統一の道に進んでいくことになったといわれる。秦による武力による中国全土の統一がこの嬴政によりなされた。紀元前221年に天下統一を果たした秦王政は、命を「制」、令を「詔」、天子の自称を「朕」とし、諡法を廃止し、死後は「始皇帝」と呼ぶことにするよう定めた。「制」と「詔」による法治政治を目指し、始皇帝による中央集権体制がとられた。また、車軸を同じ長さに統一し、文字も同じくし、度量衡や貨幣も統一した。帝国各地を巡行するために、北は燕、東は斉、南は呉・楚に至る皇帝専用の幅50歩の馳道を建設させた。また匈奴を攻め、華南から華北の地も獲得し、元あった長城を整備し4000㎞にも及ぶ「万里の長城」を整備した。これらの整備により、皇帝の権力は強大となり、中央集権が確立されていったと思われる。

 漢は秦を引き継いだ。王莽の帝位簒奪によりできた新は続かず、すぐに漢(後漢)にもどった。西暦23年に新は滅び、更始帝が洛陽で即位し後漢が再興された。更始帝政権はすぐに瓦解したが、次いで25年光武帝が即位し漢王朝の再興を成功させた。光武帝は奴婢の開放や租税の軽減などを行い経済の回復安定を図った。また後漢書にあるように「功臣を退け文吏を進む」とし、功臣や外戚には栄誉を与えるのみで官職には就けなかった。これにより皇帝に権力が集中することとなった。中央集権体制が再構築された。朝鮮を支配する楽浪郡は王調に支配されていたが、西暦30年に回復された。楽浪郡の東はその地の民族に自治をゆだねたことにより、32年には高句麗王が朝貢し、49年には扶余王が朝貢したという。その後の57年に倭奴国王が朝貢したのであった。
 
 その後の後漢の混乱により董卓が献帝を擁して都を長安に移した。これに乗じて遼東太守であった公孫度が高句麗や烏丸を討伐し、山東半島も支配下とした。公孫度の子公孫康は三世紀初めには楽浪郡の南に帯方郡を新設した。韓や濊を攻略し、韓や倭は帯方郡に属した。そのころの帯方郡や楽浪郡は公孫氏によって支配されていたため、倭の朝貢は公孫氏に対してであった可能性も高いといわれる。その後の後漢の衰退期には高句麗が侵攻した。125年から168年の順帝桓帝のころといわれる。
 
 その後の後漢の滅亡後には、魏の曹操、呉の孫堅、蜀の劉備が頭角を現すが、漢の血筋を継承していたのは蜀の劉備であった。劉備が西暦221年巴蜀に建国した蜀漢と、曹操の子曹丕が西暦220年後漢から禅譲を受けた魏と、西暦222年孫権が建国した呉とがその覇を争った。三国鼎立時代である。その後は、漢の継承を自認していた蜀漢は西暦263年魏によって滅ぼされ、その魏も同年、司馬懿の孫司馬炎が禅譲を受け晋に代わる。そして呉は晋によって西暦280年に滅ぼされることとなる。

 「親魏倭王」が魏に朝見したのは239年といわれる。それは魏の司馬懿が遼東の公孫氏を滅ぼした翌年であったが、公孫氏は呉と通行し、魏に敵対して燕王となっていた。公孫氏と共に魏に敵対していた呉の東にある倭は、魏にとって同盟する価値のある国であった。


 しかし、魏から倭の「卑弥呼」が「親魏倭王」の金印を下賜されるよりも前に、漢によって「漢委奴国王」の金印が「委奴国王」に下賜されていた。その場合の意味から考えてみよう。

 まず「委奴国」は「わのなこく」ではない。それは明らかである。漢でも魏でも、文字は一文字一音である。文字が違っても音が同じなら書き換えられることがある。まして「わ」などという訓読みは使われるはずもない。かりに倭が「倭」と書いても「イ」と読まれたはずである。「倭」は「委」と発音が同じであるとしても。「奴」は「ナ」ではない。「奴」は「ド」である。「ナ」なら現在の福岡の「那の津」の「那」を書いたはず。

 どうしてこんなことになったのかは当時の権威に聞いて似ないと分からないが、明治時代は天皇が万世一系であり、すべてが天皇につながっていなければならなかったようである。

 最近よく見かける竹田宮恒久王のひ孫である竹田恒泰氏は、「卑弥呼」は天皇家の歴史にはいないので、天皇家が九州に居た「卑弥呼」とつがっていなくて当然であるといっているが、そもそも「卑弥呼」は人の名なのだろうか。なお、彼は「卑弥呼」は九州に居たと思っているようである。現代的である。

 いま一般にいわれているのは、「卑弥呼」は「姫巫女」であり「巫女」ことであり人の名ではないといわれ、祭祀を行った巫女とされているが、そうであろうか。「卑弥呼」は女王である。単なる巫女ではない。

 その考え方でいけば「斎王」が近い。未婚の女性であり、神宮において「巫女」として「アマテラス」の魂を鎮魂する。加茂神社にも「斎王」がいる。しかし、「斎王」は女王ではない。神宮最初の斎王は「トヨキイリヒメ」であるが、女王ではない。

 ここに謎がある。

 

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