【楽曲紹介】沈みゆくネイションで魂をぶち上げる、それが若者の仕事だとおれは強く信じることにした【佐野元春】
約5年前、年齢の近い女の子(当時20代前半)に、好きなミュージシャンは誰かと訊かれたことがある。その際おれは、少し迷って佐野元春と答えた。
少し迷った理由はふたつある。ひとつは、好きなミュージシャンをひとり(一組)に絞って即答することが単純に困難だったこと。ふたつは、その女の子が佐野元春を知っている可能性が低かったこと。
でも、先に書いたようにおれは佐野元春と答えた。その女の子と話す少し前に佐野元春を聴いていて、頭の中にメロディーや歌詞の断片がまだ残っていたからだ。
案の定、彼女は佐野元春を知らなかった。おれが少し説明したら「えーその人ジジイじゃん!」と驚いた。まるで「年寄りの音楽を聴くお前は若者の感性をしていない」と言わんばかりに(被害妄想かもしれないけど)。
確かに、佐野元春はその時点で若者から見て“ジジイ”と呼べる年齢に達していた。だが、当時のおれはうまく言葉に表せなかったが、おれは間違いなく若い音楽として佐野元春を聴いていた。そして今も聴いている。
佐野元春の音楽は、今もなお若さに向けられている。ここでの若さは、必ずしもリスナーの実際の年齢を意味しない。若い感性、あるいは成熟した感性の若い部分を指す。
おれがそう感じる理由を、この楽曲に焦点を当てて考えてみたい。
アルバム『今、何処』(2022)に収録されている『さよならメランコリア』だ。
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歌詞の中で語られる現実認識は、シビアでハードだ。
何か重大な決意をすることもなく、目の前にある日常をなんとなく生きてきた。喜びも憂鬱も漠然としていて、誰かに向ける嫉妬ですら曖昧だ。死なないために生きる。それはそれで、ある種の幸福だと受け止められたかもしれない。
でも、そんな生き方がだんだん許されなくなってきた。過去から現在において通用してきたマインドやパラダイムが、これから先は意味をなさなくなる気がしてきた。このような予感は、それぞれの人が、それぞれ異なった小さな形で目の当たりにしているだろう。
人口減、政治劣化、低成長、格差拡大などが物語る、緩やかだけど確実な衰退。テクノロジーだけが進歩して、一握りを除いた大多数の国民の生活が後退していく。まるでSFで描かれるディストピア世界のようだ。
そのような世界で、おれたちは何を望み、どこに向かうべきなのか?
この問いに対して佐野元春が示す(示していると思う)回答が、「身近な未来越えた/永遠のレボリューション」だ。
「永遠のレボリューション」は、現状の体制の転覆を示唆していると解釈できるかもしれないが、おれはそうは考えない。
無論、これは現状の体制は無謬であり非難すべきではないと言いたいわけではない。
いま目の前にある“敵”を打倒したところで、代わり映えしない“次の敵”がすぐに現れて近視眼的闘争をひたすら続けていくことは容易に想像できる。そのため、眼前の闘争の必要性を直視しつつも、さらにその一段階高い水準でマインドやパラダイムを不可逆的にシフトしていく必要がある。「身近な未来」のさらに先にある、より不安定でより不確定でより不条理な世界を生き残っていくために。
そう、おれは解釈しているのだ。
だからこそ佐野元春は「そう、ぶち上げろ魂/君の魂」と呼びかけている。
“魂をぶち上げる”とは、心を成長させるとか人間力を高めるとか精神を涵養するとかと同列に扱われる、生易しい自分磨きではない。時として現在の社会への適応を強く拒絶するような、よりラディカルで跳躍的な自己変革だ。
そうでなければ、穏やかに語りかけることのほうが多い佐野元春が、わざわざ「ぶち-上げろ」という、粗野っぽい接頭辞+命令形の言い方を用いるだろうか?
佐野元春がおれたちに向けた要請は、正直言ってなかなかタフだ。どっちつかずのままでいるのはやめろ、なんとなく生きているのはもうやめろ、なんとなくの人生でなんとなく死んでいくのは虚しいだろ? そう問い詰められているようにさえ感じてしまう。
でも、佐野元春を聴いている人なら同意してくれると信じているが、佐野元春の“脆弱で孤独な個人”に対するまなざしは、涙が出るほど優しい。
上記で“要請”と言い表したことと矛盾するが、この詞(詩)は要請ではなく“祈り”である。
勇気を出して境界線を越えた先にある「真新しい世界」では、美しく尊きものが待っている。そして「真新しい世界」を見るために必要な資格は、実はそう遠くにあるわけではない。
時にやるせなさが胸を覆ったとしても、まずは手が届く範囲から「愛していいもの」と「信じていいこと」を粘り強く希求する。
“魂をぶち上げる”ためのヒントは、ここにあるのではないだろうか。
残り少ないかもしれないが、まだ時間はある。まだ間に合う。どうか「まにあいますように」。
その“祈り”がある限り、おれたちは諦めずに探し続けるんだ。
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若者の仕事とは何だろうかと、現時点で27歳のおれは常々考える。
もちろん、真面目に労働に従事して家庭を築き、社会の立派な構成員になることも、広義における“若者の仕事”といえるかもしれない。
でも、それがどれだけ正しくても、「所詮世の中そんなもんよ」と言わんばかりに消極的に諦観し、唯々諾々と通俗道徳に従って生きることには、どこか疚しさがある。
何に対する疚しさなのか? それは、社会化の過程で抑圧された“個としての心”、佐野元春のいう“魂”なのだろうと思う。
なるほど、これは要するに自分の実存に関わる悩みで、いかにも若者らしい葛藤だな。ある意味豊かに生きている証拠だよ。そう思われる人生の先輩もおられるかもしれない。
皮膚感覚でしかないのでこれ以上の説明ができないのだが、この“いかにも若者らしい葛藤”が損なわれ始めているのが今の時代だと、現在進行形の若者であるおれは感じる。加えて、“いかにも若者らしい葛藤”の実相も、かつてと今では異なるはずだ。こんにちのおれたちは、下り坂を見下ろして立っているから。
ここで最初の話に戻る。
佐野元春の音楽が、今もなお人々の“若さ”に向けられている理由。それは、現代において失われつつある“いかにも若者らしい葛藤”を、昭和や平成初期とは違う形にアップデートして投げかけ、今のおれたちに問い続けているからではないか。
またお前は自分のためにわざと曲解しているな。そんな声が聞こえてきそうだ。
意図的な曲解のきらいがある点は否定しない。開き直るようだが、曲解や誤解の余地が喜ばしいほどありすぎることが、作り手と受け手の非対称性が生む醍醐味だからだ(もちろん限度はあるだろう)。
『BACK TO THE STREET』『Heart Beat』『SOMEDAY』などの時代から聴き続けているリスナーとはまるで年季が違うことは十分に承知している。
しかし、“今の若者”が“今の佐野元春”を聴く幸福もまたある。
おれはそう信じている。いつか、魂をぶち上げて境界線を越え、その先に待っているものを見るために。
【ここでも佐野元春のはなしをしています】