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スポーツに”許し”はあるか?


1.心を豊かにしてくれるもの

明日4日に、緊急事態宣言の31日までの延長が発表されると報じられ、長期戦というよりは共存を余儀なくされている状況です。

そのような日々においても、人々の心を癒し、豊かにし続けているエンタメといえば、音楽とお笑いなのではないでしょうか。

連日のニュース番組では、TwitterやYouTubeにおける音楽アーティストやお笑い芸人たちの取り組みも報じられており、徐々にその枠も拡大しているように感じています。

人々に感動や勇気を与える、非日常を提供するといった観点でエンタメを考えた時には、スポーツ観戦、サッカー観戦もそこに含まれるでしょう。

しかし、スポーツをみることがいまの世の中に対してなにかしらの影響を及ぼしているかといえば疑問が残ります。

その力があれば、今頃テレビで過去の各スポーツの名場面・名試合でもなんでも放送されているはずです。

また、エンタメの価値が生であることにあるのだとすれば、昔にリリースされた楽曲やライブ映像、お笑いのネタや番組はこれほどまでに取り上げられていないはずです。

人に感動や勇気を与えるという点で同じエンタメに分類されるはずなのに、なぜこれほどまでに違いがあるのかずっと引っかかっていました。


2.サッカーに”許し”はあるか?

音楽やお笑いとスポーツとの決定的な要素の違いとして”許し”があるかどうかが考えられます。

音楽。ユーモア。これらに共通するものは『許し』だと思う。

(中略)

どうしようもない自分に「ダメでもいいよ」と言ってくれている気がした。ダメでもいい。ダメならダメなほどいい。そういう世界があるのだということを、教えてくれた。

2020,坂爪圭吾,「やりたいことをやるために、好きなものを好きだと言うために、僕らは生まれてきたんだ。」株式会社KADOKAWA,p185,太字筆者.


私の好きな深夜ラジオにも、そのような「許し」があるのではないかと感じています。


スポーツ、サッカーにはダメならダメなほどいいという「許し」はあるでしょうか。

するという部分においては、許しは基本的にないと私は考えます。

負けは許されないという言葉があるように、競争が基本原理で、常に勝者と敗者の存在が決定づけられる世界においては、そもそも「許し」という概念がほとんどないといえます。

世界的スーパースターで世界最優秀選手に贈られるバロンドールを何度も受賞しているメッシやクリスティアーノ・ロナウドですら、W杯での優勝経験はありませんし、リーグ戦やカップ戦で負けることもあります。

そのような勝敗が必ずつくものをみること、応援することであるスポーツ観戦にも、「許し」はないと考えられます。

「プロサッカークラブは、夢や感動、熱狂ではなく苦痛を売っている」とリバプール大学のローガン・テイラー博士も述べているように、観戦や応援が報われるのは優勝した1チームのみですし、連覇や連勝が簡単ではないことは想像がつきます。

このように、ダメでもいいという許しはスポーツ、サッカーにはないといえます。


3.許しとは、居場所。

今後、スポーツに許しの部分をつくっていくのか、それとも許しの部分をつくらずに突き抜けるのか。

日本におけるスポーツの理想のあり方は、国際大会における優れた戦績を出すことだけではなく、健康促進や地域活性化、人々の文化的な生活の創出など1つではないはずです。

しかし、今までの日本はプロ至上主義、勝利至上主義の強いスポーツ界でした。

地域では少子化が進み、公園の数が減少しているだけでなく球技を禁止する公園も多くなってきています。


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イギリスやブラジルでは、サッカーという媒体がひとびとの居場所のひとつになっており、それはアイデンティティという部分に深く結びついているからといわれています。

そのアイデンティティとの結びつきが許しとして機能しているから、文化面でも競技面でも熟成されているのでしょうか。

サッカー=アイデンティティ=居場所=許し

また、許しという点の最たる例としては宗教が挙げられます。

そんな宗教という最大の許しをもたない日本において、許しをもたないスポーツは人々の居場所になり得るのでしょうか。また、どのように人々の居場所になっていけばいいのでしょうか。

もっと勉強していきます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。