うつ病

9話目
会社の人事異動で職場が変わった時の話。
異動は初めてではなかったが、希望とは全く異なる業種の部署への異動が度々続いたこと、異動した先が社内でも有名なブラックな職場(休日出勤など過重労働が多い)であることから、異動をきっかけにメンタルの調子が一気に崩れたことがあった。

抑うつ、無気力、倦怠感、不安、早朝覚醒からの不眠、感情の喪失…
典型的なうつの症状だった。

仕事が忙しくなるにつれ、毎日帰宅が23時前後となり、土日も出勤するようになり、心身ともにボロボロになっていった。
これは明らかに幻覚だと思っているが、深夜、車を停めている駐車場までの途上で、夜の闇の道路を横断する黒い大きな4本足の獣を見たり、オフィスビルの1階共用部分の天井から逆さまに生えている髪の長い女を見たり、はたまた駐車場の向かいのビルでは、電気のついていない暗いオフィスの中で踊る人影を見たりし始めた。

一番怖かったのは、死の妄想である。
希死念慮というものがあるが、疲れきっているときは「死にたい」という感情すらなかった。そんな考え込む余裕すらなかったように記憶している。
その代わりといってはなんだが、自死の幻想に悩まされた。
例えば、車通りが多い道路で信号待ちをしていると、ちょうど車の往来が激しいタイミングで自分がフラフラと車道に歩き出す姿が脳裏に浮かぶ。
例えば、高いビルの近くを歩いていると、目の前に自分が落ちてくる。上を見あげると屋上に、今から飛び降りようとしている自分らしき人影が見える。
そういった感じで、自分が自死する姿を客観的な視点で妄想するといった症状があらわれた。
さすがに怖くなって精神科を受診した。
抗うつ剤を処方され、また仕事も繁忙期を過ぎて落ち着いてきたこともあり、変な幻覚を見ることはなくなった。

この話は、その自死の妄想があった頃の話である。
通勤で使用している路線バスの通行経路に陸橋がある。谷地を最短距離で横断するために、丘陵部と丘陵部(ほぼ山)を高い橋で結んだ道路だ。
バスがその陸橋に差し迫った時、ふと例の妄想症状が出た。
陸橋の歩道部分に人が立っている。柵、つまり橋の外側を向いて顔は見えない。
バスが男のいる辺りを通ると、頭の中に、男の視点の映像がイメージとして浮かぶ。男は柵をよじ登り橋の下に飛び降りる。とても高い。でもあっという間に地面が近づいて、地面にぶつかるちょっと前に目を閉じたのか視界が真っ暗になる。
まるでPOV方式の映画みたいな視線で自死をイメージしたのははじめてだった。

数ヶ月後、地域の噂でこんな話を聞いた。
例の陸橋の下。集落の田んぼとして使われているのだが、そこからちょっと外れた空き地(丈の長い雑草が生い茂っている場所)で白骨化した遺体が発見された。
近くの川を工事する業者が車両を停めるために空き地を借りて、草刈りをした際に見つかったのだと言う。
おそらく橋からの飛び降りだろうと。
本当にまれに見つかるのだと言う。

私が見たあのイメージは、実は本当の人間が自死する瞬間だったのだろうか。だとしても数ヶ月で白骨になるものなのか。
それとも、あるいは自死者の記憶があの瞬間私に重なって、その場面が見えたものなのだろうか。
だとしたらあの人は今もあそこでずっと飛び降り続けているのだろうか…

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