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殺した相手を恨まなかった男の物語〜犬養毅の与太話〜

みなさんは、日本史と世界史、どちらが好きですか?
僕はどちらも好きでしたが、どちらかというと日本史派でした。
もっと言うと、第一次世界大戦終了後から第二次世界大戦終了までの混沌とした感じが大好きで、受験生のときには1920年代〜1940年代ばかり勉強していました。

そんなカオスな時代、日本は第二次世界大戦という大きなカオスに突入していくわけですが、その原因となったのは「軍部の暴走」だと言われています。

日本からお金が無くなっていくと、特に強行な意見を持っていた軍部が次第に暴走するようになり、1930年代前半を中心として多くのクーデタ事件が起きました。これにより日本は第二次世界大戦に突入して行ったわけですね。
そしてそのクーデターの中でも、二・二六事件と並んでひときわ有名なのが五・一五事件です。

五・一五事件は1932年に海軍青年将校たちが企てたクーデタで、これにより当時総理大臣を務めていた犬養毅が暗殺されることとなってしまいました。
この事件をキッカケとして、更に軍部の発言力は強まっていくわけですが、実はこのとき、暗殺された犬養毅は犯人を恨んでいなかったと言うのです。

一体なぜでしょうか?今日はそんな殺した相手を許した男についての与太話をしていきたいと思います。

○犬養毅という男

犬養毅は立憲政友会から総理大臣として立てられた政治家でした。
当時は「憲政の常道」という不文律があり、簡単に言うと「衆議院選挙を行ってトップに立った政党の党首が総理大臣を務めましょう」というルールが誰からともなく立てられていたのです。

犬養が首相になった年は非常に国際的に難しい年で、満州事変という事件が起きた直後でした。
半ば無理やり「満州国」という日本に都合の良い国を建てたので、日本は世界中から非難を浴びるだけにとどまらず、日本国内でも意見が割れるような状況にありました。
賛成派「満州国を足がかりにして世界に出ていこう
穏健派「世界に睨まれすぎているから、もうちょっと空気を読もう
といった具合に。

さて、犬養はどうしたかというと、彼は満州事変自体は黙認したものの、戦争を回避、終結させるために色々な手を打ちました。
どちらかというと穏健派に位置していたのですね。

それらは、すべて日本のためを思った行動でした。日本がこれ以上、国際社会から孤立するのはよくない、と。
しかし積極的に海外に進出したい人たち、特にその中心だった軍部にとっては納得がいきません。
そして起きたのが「犬養毅暗殺計画」、すなわち五・一五事件というわけです。

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○五・一五事件当日

五・一五事件は犬養毅の自宅で起こりました。
ある日突然、武装した海軍の青年将校たちが家に押し入ってきたのです。
彼らの目的は首相・犬養毅の暗殺から日本を混乱状態に陥れ、その間に国家を改造することにありました。

このとき、犬養は「話せばわかる」といって彼らを宥めようとしたようですが、頼みも虚しく「問答無用!」として銃で撃たれてしまいました。
この「話せばわかる」「問答無用」のやり取りも有名ですね。

発砲数は9発、当時の海軍標準装備の拳銃は不明ですが、十四年式拳銃だと仮定すると装弾数は8発ですから、少なくとも2人以上で同時に発砲したということになります。

銃で撃たれた犬養は、虫の息でしたがしかし、かろうじて、生きていました。
そしてなんと、「今撃った男をつれてこい。よく話して聞かせるから」と女中に言い放ったというのです。

当時の彼は75歳を超える老齢です。
自分が死の淵に立っていることもよく理解していたでしょう。
銃弾は頭部にも命中していたというのに、一体彼は何を言いたかったのでしょうか。

実はこの話には続きがあります。
撃たれたあとにゆるゆると衰弱していく中で家人が彼を見舞いに来ました。
すると彼は「9発撃って3発しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしているのか!」と嘆いたといいます。
え!?そこ!?」って感じですが、なるほど。これも日本の未来を考えてのこと。そんな軟弱で練度の低い軍人が多いとなれば、日本は大変だ、と考えたわけです。
自分がどんな状況にあっても彼は自らの命よりも日本の未来を優先し、憂いたのですね。

その後まもなくして彼は亡くなりました。
享年78歳(当時は数え年だったので満年齢は76歳)でした。

一口に暗殺されたといっても、そこには一人以上の人間が関わっていて、それぞれの生きた証があります。
犬養の場合は「自らの死よりも軍部の訓練の練度の甘さを嘆く」という形でそれが現れたのですね。

○まとめ

いかがでしたでしょうか?
首相・犬養毅は自らの命よりも日本の未来を憂うあまりに、自らが死の淵に立たされているその元凶となったのにも関わらず、日本の軍部の練度の甘さに対して嘆いたのでした。

一体こんなこと、他にできる人がいるでしょうか?死ぬ間際にそんな風に振る舞える人というのは、ものすごい胆力だと思います。
激動の20世紀前半を生き抜くためには、ちょっとやそっとのことでは動じないような精神力が必要だったのかもしれませんね。