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「働かなくても生きられる」時代の混乱

サウナに入りながら、ふと思った。

2000年前の中国や2500年前のギリシアの時代から考えると、テクノロジーや価値観の進歩は計り知れないけど、とはいえ今の時代の人間も、基本的には2500年前と変わらず「生きるために働く」パラダイムで生きている。
「働かざる者食うべからず」の価値観はまだ根強い。

だけど、数十年後、あるいは早ければ2020年代後半、このままAIによる自動化が進み、あるいはさらなる革新的なテクノロジーが誕生したとき、「働かなくても生きられる」パラダイムが訪れるかもしれない。何もしなくても衣食住に困らないし、働くとしても例えば月に1週間だけでいい、とか。

一見、良さそうな未来。

だけどそのパラダイムシフトによって、人類がずっと持ち続けてきた価値観が崩れて、大きな混乱も生まれると思う。

暇な時間がずっと続く。自分の好きなことすればいいんだけど、「何したらいいんだろう?」と思う人は多いだろうし、「何のために生きているんだっけ?」ということを強く意識せざるを得なくなってくる。

今までは使命感とかが仮になかったとしても、とりあえず会社へ行って仕事していれば夜がきて、一日は終わったから。なんだかんだで充実感も得られたし、人間らしいコミュニケーションも存在した。

「余暇に使える時間が増えるから、これから盛り上がるのはエンタメだ」という声もよく聞こえてくる。確かに映画やNetflixに代表されるような映像コンテンツだったり、ゲームや漫画、スポーツ観戦などの需要は増していくと思うけど、でも多くの人が死ぬまでただエンタメコンテンツを消費して楽しんでいるような世の中はちょっと恐ろしい。考えたり工夫したりすることをやめたら人間はどんどんバカになっていくと思うし。人は何をするんだろう?

もし自分が、「生活の保障はするから、明日から何してもいいよ」と言われたら、何するだろうか?

以前、この疑問をつぶやいたら、歴史に詳しい知人からこんなコメントがあった。

すごく重要な点を指摘されていると思います。そして他ならぬ、その古代ギリシアでは、現代にまで大きな影響をもたらしている文化や学問の担い手たちは、生きるのに必要な労働を奴隷に任せ、自分たちは暇を持て余していたため、飯の種にならぬ知的活動に専念し、あの豊穣な文化が育まれたのです。Schoolの語源であるギリシア語スコレーは、元々「暇」という意味でした。それを考えると、学問や文化に収益性や経済的効果をもともと期待するものではないし、そういうものを抜きにして打ち込むのが、本来の「学び」なのではないでしょうか。ある意味で遊びと同じだと思っていますし、その意味で現代の学校という制度は、本来おもしろいはずの勉強をわざとつまらないものにして、苦痛を強いるものにしているのではないかと、僕はずっと考えてました。ひょっとしたら、近い将来に、そんな学びが実現するかもしれませんね。

スクールの語源が「暇」だったとは、実に興味深い。それなら学びが遊びと同じというのも頷ける。本来、学びは楽しいものだ。現代を生きる我々は、奴隷に頼ることなく豊穣な文化を育みたい。

あと、もうひとつ強く興味を持っているのは、その大きな価値観の変化によってお金の持つパワーが下がってきた時に、人は何を、より強く獲得しようとするのだろうか、ということ。ずーっと昔から、お金を持っている人間に権力やパワーが集中したけど、それが揺らいだら?

ひとつは堀江貴文さんなどもよく言うように、「信頼」や「信用」なんだろうと思う。

あとは、人としての「面白さ」「楽しさ」とかなのかな。そこには知識とか経験の広さも含まれる。と、なんとなく想像する。

「共感力」や人の心に関わる価値も強まってきそう。「こういうことで悩んでたけど、あの人はわかってくれた」みたいな価値は、テクノロジーの進歩とは関係なく大切なものだと思う。

歴史を知れば知るほど、今って人類史が大きく変わるような、本当にすごい時代を生きているんだろうな〜という気がしてくる。

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