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コロナ禍で会いましょう

昨日、所属する社会人バスケチームの練習に久しぶりに参加してきました。

久しぶりだったのは、コロナで体育館が使えなかったのとは別に、個人的にぎっくり腰をやってしまい運動できる状態じゃなかったからです。笑

コロナ禍ではありますが、8月の茹だるような体育館で久しぶりにバッシュを履き、ボールを追いかけ、息を切らした時間はなんとも新鮮で、そして普段忘れかけていた気付きがありました。


「新しい生活様式」への違和感

ソーシャルディスタンスやテレワーク、いわゆる「新しい生活様式」が提言され、私たちは否応なくこれまで気にしなかったようなことに気を配り、それがだんだんと当たり前になってきたように思います。

不要不急の外出を避け、リモートコミュニケーションが推奨され、私たちは何気なく出会っていた人たちと距離を置くことを余儀なくされました。

それどころか、人が集まることを徹底して排除したことで、いかに日本人が”無駄に”集まり、時間を浪費していたかが浮き彫りになりました。キングコング西野亮廣さんも「コロナによって、それまで『意識高い系』と揶揄されていたリモートワークや時短による生産性といったものの正統性が一気に押し上げられた」と語っています。

これからはコロナの有無に関わらず、リモート化やデジタル化に迅速に対応できた者が生き残る時代と言われているようです。

そうした論調に深い納得をすると共に、私にはどうしても拭えない違和感がありました。

それは”人が同じ空間で出会うことの価値は、もう残っていないのか”という懸念です。価値といっては大袈裟ですが、「それでも直接人と会うことは大事なんだー!」と声高に叫んでも、どうしても変化を恐れる臆病者の遠吠えにしかならない気がしていたのです。

だけど、バスケを通して気づいたことが1つありました。

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コロナ禍でのバスケットが教えてくれたこと

ゲーム形式の練習の休憩時間。ぼんやりとチームメイトの様子を眺めていました。

あの人は休憩中もシューティングするんだな、とか。
あ、実はあんな風に膝を意識しながら打ってるのか、とか。
あの人はさっき人が倒れたところをモップがけしてくれてるな、とか。
あの人とあの人は、知り合って間もないのに仲がいいんだな、とか。

その時に、ふと気がついたんです。

こういう人間観察って、どんなにオンラインが発達してもできないのではないか?と。

思うに、オンラインという世界は、参加している人全員が発信者であり、受信者であると思うのです。自分の顔を画面に大きく写し、発信しながら参加者の表情や話をキャッチする。その相互関係で成り立っている世界です。

でも実際に仲間と会う場合は違います。
全員に発信しなくていいし、全部を受信しなくてもいい。
でも、何気ない行動や表情が誰かに受信されたり、発信したい相手にだけ発信することができる。共有したりしなかったりが、全く自由な空間だと思うのです。

その「適当に選べる発信と受信」がオフラインの魅力ではないかと思うのです。

…うーん、だから何?と言われるとそれまでなのですが(笑)、私にとってはその適当な感じが心地良いんです。


双方の魅力を明確にして使い分ける

どんなに時代が変わっても、やはり私たち人間は同じ空間にいる近い人間に一番影響されるように作られているように思うのです。

コロナ禍の今、リモートの強みを生かして時短や効率の向上に取り組むことは非常に大切なことです。

一方で、直接人に会うオフラインの強みもまだまだあると思うのです。そこでしか得られない強みを明確にして生かすことができれば、価値は高まっていくのだと思います。

コロナによって、私たちの生活は一変しました。

でも、だからこそ今までの”当たり前”の中で、何が無駄で何が必要かをもう一度考え直すことが大切だと思うのでした。


最後に…日が空いてしまいましたが、今日からまた気楽に継続して更新していこうと思います!よろしくお願いします!


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